熊倉佑哉 くまくら ゆうや
株式会社浜銀総合研究所
情報戦略コンサルティング部 上席主任研究員
1.はじめに
これまで『労政時報』第4057号(23.6.9)と「WEB労政時報」の連載4回にわたって、人事データ活用の歴史から人事データ活用に着手する際のポイント、また具体的なケーススタディについて総論各論を織り交ぜながら解説してきた。連載の最終回となる今回は、ケーススタディ番外編として、人事データ活用における実務上の留意点を紹介する。
以下で取り上げる「留意点」に対して、最初から完璧さを求める必要はない。自社の状況を踏まえて、参考になる部分からスモールスタートで人事データ活用に着手いただければと思う。
2.人事データ活用体制の留意点
人事データ活用を始めるに当たっては、その目的はもちろんのこと、どのようなデータを使用するか、それらを蓄積する方法、またデータを分析できる人材など、多岐にわたる社内体制の整備が必要となる。これから人事データ活用に着手する企業にとっては、以下の点に留意されたい。
[1]目的が不明確になりがち
人事領域に限った話ではないが、鶴の一声でデータ活用チームが編成されて、目的が曖昧なまま始動し、特に「データ分析」それ自体が目的と化した結果、課題解決へと結び付かない単なる“自由研究”で終わってしまうケースが見受けられる。
自社の人事戦略や人事施策の課題を整理し、理解して、「何のためにデータを活用する必要があるのか」「データを活用して何を明らかにしたいのか」といった目的を明確にすることが成功の近道である。
[2]乱雑なデータと「一元管理」の誤解
人事データによくある課題としては、データの保管先が散在していることや、データの定義(レイアウト)が時期やデータ種類によってバラバラであることなどが挙げられる。また、データを一元管理できているといっても、単に一つのフォルダに格納されているだけで、一元的(従業員番号や組織コードなどで複数データが容易にひもづけられる形式)に管理されていない場合が多い。
こうしたデータ管理に対する課題の大部分を解決するのに大変有効なツールが、タレントマネジメントシステム(以下、TMS)である。人事データ活用に当たり、必ずしもTMSが必要ということではないが、人事諸施策の改善や人的資本開示に向けたデータ整備の観点からも、TMSの役割は大きい。
[3]データ活用組織の停滞
TMS保守や人事データ分析には、システムエンジニアやデータサイエンティストをはじめとした一定の専門知識・スキルを持った人材が欠かせない。そうした中、それらの人材の異動や退職をきっかけに、人事データ活用の取り組みが途絶えてしまうケースが後を絶たない。
そこでデータ活用チームの立ち上げに当たっては、可能な限り複数名体制で編成すること、特に専門性の高い領域については、適宜外部専門家の協力を得ながら、安定的な組織運営を行うことを推奨する。
3.分析時の留意点
[1]サンプルサイズが小さい
人事データを分析する際に頻繁に直面する課題は、サンプルサイズの小ささであろう。統計学的にはサンプルサイズが小さければ、仮説検定(例えば、「A部署とB部署の退職率の差」が統計的に意味のあるものか判断・検証する方法)をした際に、一般的には“有意”となりにくい。そのため、分析対象には一定程度のサンプルサイズが必要となる。
では、従業員数が少ない企業では、人事データ活用ができないのかというと、そうではない。前記のとおり、統計的検定や推定には注意が必要な面はある。しかしそれを補うためにも、これまでの知見・ノウハウを組み合わせて丁寧に分析結果を解釈し、また組織内で十分な議論を通じて、実務へ展開していくとよい。そのためにも、人事データの分析者は単なる数字遊びにならないよう、人事業務の理解が不可欠となる。また、データ分析のアプローチは統計的検定や予測モデル構築がすべてではない。第1回で紹介した従業員構造把握のように、データの可視化や記述統計(平均値や標準偏差などを計算して、データの性質を知ること)を通じて、従業員の理解を深めることには十分に価値がある。
[2]明確に定量化できないケースがある
例えば、第4回に紹介した退職予測分析であれば、(退職理由の違いはあるものの)過去時点で在籍していて、現時点で在籍してないことをもって明確に「退職フラグ=1」を設定することができる。また、第3回に紹介したハイパフォーマー分析においても、営業担当者を対象とした際、「今期販売額○円以上の担当者=ハイパフォーマー」を設定することもできるだろう。しかし、管理部門やスタッフ職では、何をもってハイパフォーマーとするか、明確に定量的な基準で定義できない場合が多い。
こうした場合、分析の目的に沿ったものとする前提ではあるが、行動評価や業績評価・保有スキルなど、多面的な複数のデータを考慮することを推奨する。また、その際に重要なアプローチとしては、前記の留意点と同じく人事担当者の見立ても組み合わせて、ハイパフォーマーを定義するとよいだろう。なお、明確に定量化できないテーマを扱う場合、人の判断にはそれ相応のバイアスが含まれることを十分念頭に置いて分析を進めるようしたい。
[3]効果検証の難易度が高い
マーケティングなどの領域では、ABテストと呼ばれる検証方法をとることが多い。例えば、200人の顧客のうち、ランダムに抽出した100人(A群)には商品訴求メールを送信し、残りの100人(B群)には送信しない。一定の観測期間を経て、商品成約率の違いをA群とB群で比較し(両群は同質である前提)、その差を商品訴求メール施策の効果とみなす。
では、これと同じことを人事領域でできるだろうか。例えば、A群には特別の研修を受けさせ、B群には受けさせない。一定期間を経てパフォーマンスの違いを検証して研修メニューの高度化を図るといったことが容易に実施できる企業は多くないだろう。さらに、前記の商品成約のケースであれば、数週間程度の観測期間で効果測定ができるかもしれないが、人事領域、とりわけ人材育成やキャリア開発などのテーマでは、短期的に効果が表れるものでもない。
そのため、人事データ活用に当たり、特に何らかの施策展開などに分析結果を用いる場合は、多くの場合は中長期的なスケジュールを前提に効果検証を実施するとよい。
※2021年にノーベル経済学賞を受賞した米カリフォルニア大バークレー校のデービッド・カード氏ら研究では、ABテストのような比較検証ができないケースにおいて、「自然実験」と呼ばれる方法で因果関係を明らかにすることを示した。
4.分析結果活用時の留意点
ここでは第4回で紹介した「ケーススタディ5:データ活用を通じた内部管理態勢強化」を例に、実務展開時のよくある失敗事例として分析結果の開示の仕方を紹介する。なお、この失敗事例は、本質的には他のケース(ハイパフォーマー予測分析や退職者予測分析)でも同様である。
[1]監査不芳予兆スコアの不正(予兆スコアの具体的な判定条件を現場に開示)
「データ活用により網羅的・客観的に予兆把握していること」を周知すること自体は、1線(事業部門)に「見られている」という意識を持ってもらうことで自浄効果につながる。一方、特に部門長や所属長らは、自組織のスコアが低い場合、「なぜ、このスコアなのか開示してほしい」と要請することだろう。その際に事細かに判定条件を開示してしまうと、判定条件の項目だけを良く見せようとする「監査不芳予兆スコアの不正」を招くおそれがある。
[2]先入観(個人名がひもづく形でのスコアを現場評価者に広く開示)
バイネームでのスコアは、人事部門やコンプライアンス部門、あるいは評価者の一部で、配置や育成等の検討に活用するに大きな問題は生じないが、例えば、「ハラスメント事案の発生見込み度が高い」といった分析結果を、評価者宛てとはいえ広く開示してしまうと、職場や部下への偏見が生じてしまい、適正な組織運営や人事評価がしにくくなるおそれがある。
5.人事データの取り扱いに関する留意点
人事データの特性上、プライバシーに関わる内容が含まれる可能性もあり、解析やプロファイリング、またその活用の仕方を誤れば、個人の尊厳を傷つけるおそれや各種法令に抵触する可能性もある。
したがって、人事データを取り扱う者は、個人情報保護法をはじめとした関連法令や、内閣府「人間中心のAI社会原則」(2019年3月29日)などの各種ガイドラインについて、趣旨や考え方を理解するとともに、高い倫理観を備えておく必要がある。実務上は、人事データの利用目的を明確にし、一方で上記のような分析結果が独り歩きしないよう、データ活用について従業員への説明責任を果たすことなどが挙げられる。
一般社団法人ピープルアナリティクス&HRテクノロジー協会では、こうした人事データ活用に際しての実務上のポイントを、「人事データ利活用原則」(2020年3月19日制定、2022年4月30日改定)として公表している[図表1]。読者自身や所属組織が社会的・倫理的責任を果たせているかを確認する意味でも、ぜひ参考にしていただきたい。
[図表1]人事データ利活用原則
資料出所:一般社団法人ピープルアナリティクス&HRテクノロジー協会「人事データ利活用原則」より筆者抜粋。
6.おわりに
データ活用、とりわけデータ分析は、あくまで手段の一つである。そのときたまたま切り出されたデータの中からインサイトを見つけるための取り組みにすぎない。上記のとおり、人事データには年齢や性別、労働時間や保有資格などの機械的・客観的に収集できるデータのほか、人事評価や将来の希望職務などバイアスが含まれる主観的なデータも多い。
そのため、『労政時報』での解説や本連載でも繰り返し述べてきたように、分析の目的や仮説設定はもちろんのこと、分析結果の解釈についても、データをうのみにするのではなく、分析者はもとより人事担当者や、あるいは業務部門ともコミュニケーションを取りながらデータ活用を進めることを推奨する。
このことからも「データ活用」と対比する形でネガティブな意味で使われることの多い「経験・勘・コツ」(いわゆる3K)は、決して排除されるべきものではないと考える。人事データ活用についても、人の判断や意思決定とうまくコラボレーションする形での発展を期待したい。
元来、「人事」は“人の目で見る”ものであり、“データで語る”などご法度──といった印象が強かったように思う。近年では、TMSをはじめとしたHRテックの普及が進み、また徐々にデータ活用の成功事例が出始めているものの、それでもマーケティングなど他の領域と比較すれば、「人事データ活用」は、まだまだ十分な伸びしろが期待される発展途上にあるといえよう。今後も人事データ活用を通じて、より良い人材マネジメントの実現を、皆さんとともに目指していければと考える。
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熊倉佑哉 くまくら ゆうや 株式会社浜銀総合研究所 情報戦略コンサルティング部 上席主任研究員 東京工業大学大学院社会理工学研究科修了後、株式会社浜銀総合研究所入社。マーケティング高度化支援、組織・人材管理領域のデータアナリティクス業務等を担当。一般社団法人ピープルアナリティクス&HRテクノロジー協会 認定人事データ保護士。 |