2019年07月26日掲載

雇用・労働の平成史 - 第4回 平成7~9年(1995~1997年)――「雇用ポートフォリオ」の構想と現実


藤本 真 ふじもと まこと
独立行政法人労働政策研究・研修機構
主任研究員

 日本を代表する経営者団体、日本経営者団体連盟(日経連)が平成7年(1995年)5月に公表した『新時代の「日本的経営」』には、日本の新たな雇用慣行の在り方として、次のような構想が示されていた。

 「新しい雇用慣行は、この理念(著者注:長期的視点に立って、人間中心の下、従業員を大切にしていくという基本的な考え方)をもちながら、産業の構造的転換、労働市場の構造的変化、従業員の就労・生活意識の変化に柔軟に対応できるようにその内容を整えることが大切である。それは長期継続雇用の重視を含んだ柔軟かつ多様な雇用管理制度を枠組みとし、企業と従業員双方の意思の確認の上に立って運営されていくものと考える」(『新時代の「日本的経営」』31ページ。下線は筆者による)。

1.「雇用ポートフォリオ」という構想

 日経連は平成4年(1992年)8月に「これからの経営と労働を考える」と題した報告書を発表した。この中で日本的経営の基本理念として打ち出されたのが、「長期的視野に立った経営」「人間中心(尊重)の経営」であった。その後、日経連では、この二つの基本理念が、日本企業を取り巻く経営環境の変化にも耐え得るかどうかを検討し、今後とも深化を図りつつ堅持していくべきであるとの結論を得た上で、基本理念を踏まえた実践的・具体的な指針の作成に取り組んだ。その結果完成したのが、『新時代の「日本的経営」』である。
 『新時代の「日本的経営」』は、日本的経営システムの全体像を示した総論と、そのシステムにおける雇用・処遇に関わる個別課題と対応策について検討した各論、さらに先進事例の紹介により構成されている。「雇用ポートフォリオ」は、労働市場の需給両面の変化や雇用形態の多様化が進展していく中で、人材の育成と業務の効率化を図る上での対応策として示された。
 「ポートフォリオ」とは、元々は企業や個人が、自らの目的に合わせてさまざまな種類の金融資産を組み合わせることを意味する。『新時代の「日本的経営」』は、企業や労働者の意図を踏まえてさまざまな雇用・就業形態の活用が広がっていく状況の下、各社が自社の経営を踏まえて多様な雇用・就業形態を組み合わせ、「自社型雇用ポートフォリオ」を構築していくことを推奨する。そして日経連が、雇用ポートフォリオを構成する雇用・就業形態のタイプとして考えていたのは、以下の三つであった。
 第1は、従来の長期継続雇用という考え方に立って、企業としても働いてほしい、従業員としても働きたいという「長期蓄積能力活用型グループ」である。OJT(On the Job Training、仕事をしながらの教育訓練)を中心として能力開発を進め、処遇は職務や組織内の役職階層に基づくというグループである。
 第2は、企業の抱える課題の解決に、専門的熟練・能力によって応える「高度専門能力活用型グループ」である。Off-JT(Off the Job Training、仕事を離れての職業訓練)や、自己啓発(=労働者が自らの意向で取り組む教育訓練)を中心に能力開発を行うグループのため、このグループを活用しようとする企業は、能力開発のための支援や環境整備に努める必要がある。処遇は年俸制など、成果と処遇を一致させる制度に基づくのが望ましいとされた。
 第3は「雇用柔軟型グループ」と呼ばれるグループである。企業側は定型的な業務から専門的業務まで幅広い業務でこのグループを活用することが念頭に置かれ、一方、従業員側の就業意図としても余暇の活用から専門的能力の活用までさまざまなものが想定されている。能力開発は必要に応じて行われ、処遇は職務給などが妥当であると考えられた。
 [図表1]は『新時代の「日本的経営」』に示されている、三つの雇用・就業タイプの位置づけである。それぞれのタイプは互いに一部ずつ重複するものとして描かれており、各タイプ間の移動は自由に行うことができるとされている(『新時代の「日本的経営」』、32ページ)。ここで各タイプの位置づけを左右する要素となっているのが、各タイプに該当する労働者の「定着」・「移動」に関する企業側の考え方と、労働者自身の勤続期間に関する考え方である。ただ、この二つの要素について、『新時代の「日本的経営」』にはさほど詳細な説明がない。例えば企業側の考え方の「移動」とは、移動することを見越していることなのか、移動することを望むものなのかは『新時代の「日本的経営」』の中にはっきりとは書かれていない。また、労働者の考え方である「短期勤続」も、どういった事情がある場合に労働者が短期勤続を考えたり、望んだりするのかは指摘されていない。

[図表1]雇用ポートフォリオを構成する三つの雇用・就業タイプ

資料出所:日経連(1995)『新時代の「日本的経営」』32ページより作成

2.構想の「理想」と「現実」

 戦後の人事方針について調査・分析をし、『新時代の「日本的経営」』の立案当事者にも数多くのインタビュー調査を重ねてきた梅崎 修氏、八代充史氏によると、「雇用ポートフォリオ」という用語は『新時代の「日本的経営」』によって広く知られるようになったが、1980年代後半から使われていた。ただ、『新時代の「日本的経営」』までの雇用ポートフォリオ論は、長期勤続の正社員を念頭に置いた「ストック型」と、パート社員、契約社員、派遣社員などを念頭に置いた「フロー型」によって構成される雇用ポートフォリオを掲げていた。『新時代の「日本的経営」』の雇用ポートフォリオ論の新しさは、ここに「高度専門能力活用型」という、高度な専門能力を活かして一つの企業で長期にわたって活躍することも、あるいは複数の企業を渡り歩いて能力を発揮することもできるグループを加えたことにある。特に立案当事者の一部が期待していたのは、この「高度専門能力活用型」が企業横断的に活躍できるような「市場性」を持つことだった。(梅崎 修・八代充史(2019)「『新時代の日本的経営』の何が新しかったのか」)
 もっとも、拡大が期待された「高度専門能力活用型」グループは、なかなか広がる兆しを見せなかった。日経連は『新時代の「日本的経営」』を公表した後、雇用ポートフォリオを構成する各グループが占める割合について、企業を対象とした調査を平成8年と10年(1996年と1998年)に実施したが、「高度専門能力活用型」の割合の平均値は1996年調査が7.1%、1998年調査が5.9%であり、いずれもごく少数にとどまった。
 一方で、『新時代の「日本的経営」』では、雇用ポートフォリオの構築と同時に、経営計画に基づく総額人件費管理の徹底化や、定期昇給やベースアップの見直しを含めた賃金決定システムの再検討が提唱された。そのため、雇用ポートフォリオに関わる記述自体には賃金や人件費との関連を詳細に言及した内容がないにも関わらず、『新時代の「日本的経営」』の公表当初から、雇用ポートフォリオ論を人件費削減のための非正規社員活用の拡大や、ひいては労働者の間の格差拡大をもたらす、論理的なバックボーンであるかのように見なす見解が多く見られた。
 例えば連合は、『新時代の「日本的経営」』の公表2日後に発表した見解の中で、雇用ポートフォリオ論が、長期の雇用対象を、一部のエリート職員である「長期蓄積能力活用型グループ」のみとしていると批判した。また、『新時代の「日本的経営」』公表後の1990年代後半から2000年代初頭にかけて、いわゆる「非正規労働者」の雇用者に占める割合がサービス業を中心にこれまでにないほどに伸びていったことや[図表2]、1990年代後半に労働者派遣の原則自由化に向けた動きが進んだことなども、「雇用ポートフォリオ論=格差の元凶論」といった見方に拍車をかけたと考えられる。

[図表2]1990年代後半から2000年代における「非正規労働者」の割合の推移

資料出所:労働省・厚生労働省「就業形態の多様化に関する実態調査」(平成11年度)

[注]図中の割合は、正社員以外の雇用・就業形態で働く人の、雇用者全体に占める比率。

 雇用に関わる提言や見通しの中には実現されないものもあり(現に「高度専門型」の活用は広がらなかった)、非正規労働者の活用拡大の要因を、雇用ポートフォリオ論にのみ求めるのは妥当ではないだろう。ただ、『新時代の「日本的経営」』における雇用ポートフォリオ論は、少なくともその記述を見返す限りでは、バブル崩壊後のこの時期、多くの組織において雇用や人件費の調整が進みつつあったという「現実」に対し、さほど配慮が傾けられていたようには感じられない。もしそうした配慮があったならば、この雇用ポートフォリオ論は、企業と労働者の新たな結びつきを提言したものとして、もっと高く評価されていたかもしれない。
 バブル崩壊以降、雇用や人件費の調整に向けた動きを日々強めていった日本企業であるが、主要な調整手段の一つは、新規従業員の採用抑制であった。そして、多くの日本企業が懸命に調整を進めた結果、令和元年の現在に至るまで重大な影響を及ぼす「就職氷河期」が出現することになる。

藤本 真 ふじもと まこと
独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)
人材育成研究部門 主任研究員

1972年広島県生まれ。専門は産業社会学、人的資源管理論。①人材育成・キャリアディべロップメントに関する企業・職場・働く人々の取り組みや、②中小企業セクターで働く人々の意識・行動、③能力開発・キャリア形成支援政策、などを対象に調査研究活動に従事。主な著書に『日本的雇用システムのゆくえ』(共著、労働政策研究・研修機構)、『中小企業における人材育成・能力開発』(共著、労働政策研究・研修機構)、『よくわかる産業社会学』(共著、ミネルヴァ書房)など