亀田 高志
株式会社産業医大ソリューションズ
代表取締役社長・医師
危機が現実のものとなったときには、それが大きな災害や事故であるほど、オフィスや工場で働く人は混乱した状況に置かれます。そうした場合に、前回説明した行動基準をすべての関係者が確実に実行できなければ、危機による損失、リスクを最小化することはできず、結果的に危機管理対策の目的・目標を達成できません。
また、困難に直面している最中でも、社内のすべての関係者に適切な行動を促し、迅速に正確な情報を伝えて、不適切な反応や行為を防止する必要もあります。
今回は文書化の作業を終えた後に、これらの課題を解消するための社内における教育、研修について説明します。さらに危機が顕在化する前の準備としての訓練を軸に、「個人の対応能力」としてのリテラシーという考え方も紹介します。
1.危機事象に関する教育、研修を行う
危機管理対策ではこれまで説明したように、多くの企業等では、例えば防災の日に合わせて地震や防災の訓練を行い、危機管理意識の浸透や正しい行動を徹底する努力をしています。2009年には新型インフルエンザの流行が起こり、翌年に終息するまで、多くの企業では程度の差こそあれ一定の情報提供が行われていました。
しかし、地震や火災、新型インフルエンザは全体から見れば、非常に限られた危機事象でしかありません。日本国内で現在、考え得る危機事象としては、さらなる新型インフルエンザや他の感染症の流行、近年の突発的で局地的な豪雨、台風やそれらに伴う洪水、竜巻や突風、日本列島で頻発している火山の噴火等についても、系統的かつ定期的に社内に情報提供を行う機会を設けることが望ましいと考えられます。
教育、研修機会の重要性
善かれあしかれ、近年ほとんどの企業・職場では、少ないコストで高い売り上げや利益を得ることを等しく目指しています。したがって、専門部署や担当者ではない管理職や一般従業員が多様な危機事象へのスキルや知識を得る機会はほとんどないと考えられます。
一方で働く人は、日々現実に起きた深刻な自然災害の報道に触れています。いわゆるゴールデンタイムに、そうした話題を取り上げた報道番組や情報番組もテレビ放映されています。犠牲者や被災者のことを考えて、感情を揺さぶられることがあることでしょう。しかし、それを教訓として、職場の備えを自主的に思考し、自宅での備蓄を含めた準備を整えようと行動を起こす人は極めて少ないのではないでしょうか。
ですから、これまで説明した特定の危機事象の文書化ができた後には、それを管理職や一般従業員に周知する機会を設ける必要があります。その際には、前回の解説でサンプルを示した「行動基準」を周知し、それが習慣となるよう促すことが大切です。
そうした機会では、特定の危機事象に関する基礎知識に加えて、自宅に備えるべき備品やその量の目安までも、伝えることができます。そうした内容を含めば、基礎的な教育や効果的な研修となるのです。
どのような内容を、いつ伝えるか?
教育や研修は基本的に座学の形式で構いません。多くの企業では現在、他のさまざまな話題についての教育、研修が提供されていると思います。そうした機会に組み合わせる形で30分なり、60分なり時間の許す限り、危機管理対策の基本的な内容を伝えるようにします。
危機事象の種類によって、その内容を毎回、大きく変える必要はありません。さらに、「専門家でなければ講師は無理だ」などと考えることもありません。これまで触れた文書化の過程で検討した内容から、次の例に示す基本的な枠組みを意識しながら、許される時間に応じて、情報提供を行うのがポイントです。
また、原則、出席を必須とするのがよく、任意での参加にするのはお勧めしません。従業員の間に知識のバラツキができてしまい、教育・研修の効果が不十分になるからです。また、新入社員を対象としたり、昇任、昇格のタイミングでの研修に組み合わせることで、漏れなく必要な教育・研修を受講してもらうことができます。
下記に一般従業員向けの教育・研修内容の例を示します。
危機管理に関する教育・研修内容の例(一般従業員向け)
1.危機管理対策の目指す企業活動の維持・存続(総論部分)
a 人、モノ、カネ、情報という四つの要素に危機事象がどのように影響するか?
b 対策の目的は「企業活動の維持・存続」であること
c 目的に向け達すべき目標は、従業員の安全と健康の確保であり、工場等による環境への影響と事業活動に影響し得る被害の最小化であること(被害を皆無にすることを目指すのは現実的ではないこと)
2.危機管理対策の体制と時期(総論部分)
a 経営層、担当部署、管理職、一般従業員という組織に合わせた対策の体制
b 時間軸から見た危機事象(数秒、数分から数時間、数日、数週から数カ月まで)
c 危機に備える準備、危機の最中における対処、事後の復旧・復興という時間的な流れ
3.具体的な対処・対応(各論部分=自然災害を例として)
a 特定の危機事象の影響
大きな自然災害の被害想定に基づく情報提供
b 特定の危機事象への予防活動や被害を少なくする準備
〈例〉自宅で用意すべき備品等(後述)
(1)現代社会を支える物流が危機によって阻害された場合の問題
(2)水、食料、トイレ等の対応を考えることの重要性
c 特定の危機事象への対処
(1)事象が顕在化した際の行動基準
(2)その他
①外傷への応急措置(可能であれば心肺蘇生等も)
②強いストレスによる影響と対処
d 特定の危機事象の発生後の復旧・復興について
(1)損失を最小化するための体制
(2)損害の評価
(3)保安活動・清掃・回収・重要記録の復旧等
これらのうち、総論部分は初回だけ、できれば責任ある立場の人がしっかりと説明すると効果的です。それ以降は、毎回、詳しく触れる必要はありません。
一方、各論部分は事象ごとに被害想定、準備、対処、復旧・復興の四つを学んでもらい、特に対処における行動基準の徹底をしっかりと行います。
大規模な自然災害の場合には、医療機関を平時のようには頼ることができません。ですから、なるべく自分たちで応急措置を行うことができるようにします。例えばやけどの場合には水で、できれば流水で20分程度は患部を冷やすことから始めます。また、骨折の場合には手持ちの傘などで骨折した箇所を固定することもできます。
また、管理職に対しては部下への対応、例えば安否の確認等が必須となります。したがって行動基準にもこれらの内容が含まれるはずですから、そうした点も教育・研修の場でしっかりと徹底しておく必要があります。
2.危機事象に対応するリテラシー
リテラシー(literacy)という言葉は、もともと読み、話し、聞き、考えるといった言語に対する言葉でした。近年、リテラシーという言葉は、『知識やスキルがあってそれを活用できること』という意味で用いられるようになっています。例えば、PCやインターネット等を使いこなすことができることを"ITリテラシー"と呼んだりします。
加えて、近年は健康管理の専門分野でも、健康維持や病気への対処に関して「ヘルス・リテラシー」という言葉が用いられるようになっています。これは自身の健康や病気に対して、自ら適切な知識と理解を持って対応できることを意味するとされています。
例えば、食べすぎ、飲みすぎ、運動不足はメタボに悪いことは誰しもが知っているでしょう。しかし、これだけでは正しい知識を持っていることにすぎません。そのために、食べすぎや飲みすぎにどのように対応するかという理解もある種のスキルになるでしょう。しかし、そうした情報をしっかりと使って、実際にバランスのとれた食事を摂り、効果的な運動習慣を身に付けていなければ、適切なヘルス・リテラシーを持っているとは言えません。
同じく危機管理対策においても"リテラシー"、つまり「危機事象に関する正しい知識を持ち、対応する適切なスキルを危機への備えや対処において発揮できる力」はとても重要です。
重要なリテラシーとしての自宅での備品準備
大きな自然災害等の危機事象に際して、オフィスや工場で滞在する関係者のための備品を準備することは大切です。しかし、そこに全従業員の自宅に置いておくための備品のすべてを用意することはできないでしょう。
物流がストップすれば、日用品や水、食料に事欠くようになることは誰しもが想像できます。また、その状態ではスーパーマーケットでもコンビニエンス・ストアでも購入できないことも知っています。
それゆえ、物が豊富にあるうちに準備のために備品を購入して準備する必要があるのです。こうしたことの実行力も危機事象に対するリテラシーの一つであると考えられるのです。自宅で整えておくことが望ましい備品としては、次のようなものが挙げられます
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自宅で整える備品の例 |
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3日から7日程度を自宅で待機し、耐えることを想定する |
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a 十分な飲み水(例:ペットボトル入りの水= 最低1人1日2リットル) b 十分な保存食等の食料 c 懐中電灯 d 乾電池式ラジオ e 乾電池式携帯充電器 f 十分な量の乾電池 g 常備薬 h 治療中の病気に対する処方薬 i 応急措置のための救急箱 j 十分な量のペーパータオルやティッシュペーパー k 簡易トイレ l トイレットペーパー |
m 生理用品(女性) n ろうそく、マッチ o 防寒が必要な場合の毛布、ジャケット、セーター等 p メガネ、コンタクトレンズのスペア q 笛 r 運動靴 s 連絡先(緊急の場合のために) t 現金(クレジットカード、電子マネーが使用できない場合のため) u ペットのための準備 v その他 |
机上訓練を通して、危機管理リテラシーを高める
教育・研修で身に付けることができるのは、知識とスキルです。これを活用できるリテラシーを身に付けるには、なるべく実地に近い形で学び、経験する必要があります。そのために効果的な方法が、先のこの連載でも少し説明した机上訓練です。
机上訓練では、文書化の際に関係者で検討した被害想定をシナリオに書き直し、物語(ストーリー)として説明し、どのような行動をとるかを問い掛けます。以下にその物語(ストーリー)の例を示します。
火災のシナリオ
あなたは、今、普通の勤務日で、いつものように机に向かい、あるいは、作業しています。先ほどから、ふと、きな臭い煙の臭いがしてきたことに気が付きました。けれども、同僚たちは気づいている様子がないので、気のせいだと思うことにしました。しかし、5分ほどして、煙の臭いがだんだん、きつくなってきたので、立ちあがって、近くのドア越しに見てみると相当な煙の流れが見えました。その瞬間"火事だ! 逃げろ!"と誰かの叫び声がしました。
【検討事項】さあ、その時、あなたは、同僚の人たちと、どのように行動しますか?
地震のシナリオ
前日、13時19分に都内ないし県内のマグニチュード5程度の地震があり、震度3であった。揺れはそれほど強くなかったが、周期が大きく、時間も長めだった。
本日、例えば、15時35分を現在として、突然の大きな揺れがオフィス、工場の所在地付近を襲った。
①激しい揺れで、立っていられない。
②すぐに停電となった。
③社内の数人が転倒や落下物によって、けがをした模様。
④水が漏れる音がする。
⑤揺れは3分程度続き、いったん収まったが、再び大きく揺れ出し、動けない。
⑥さらに10分後に揺れが収まり、動きがとれるようになった。
【検討事項】さあ、その時、あなたは、同僚の人たちと、どのように行動しますか?
これらの【検討事項】をグループワークで話し合い、発表の機会を設けるなどした上で、その後に行動基準を説明すると参加者の記憶によく残ります。地震の場合には直後から物流が停止し、物資が不足する状況を表現すれば、従業員が自宅で上記のような備品を用意することを促す効果があります。したがって、机上訓練は教育、研修の一つであると考えることもできるのです。
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亀田高志 かめだ たかし 株式会社産業医大ソリューションズ 代表取締役社長・医師 1991年、産業医科大学医学部卒。国内大手企業ならびに米国外資系企業の専属産業医とアジア太平洋地域担当、産業医科大学講師を経て、2006年、産業医科大学による(株)産業医大ソリューションズ設立に伴い現職。企業における健康確保対策の構築と健康管理活動の事業化が専門で、職場のメンタルヘルス対策や危機管理対策に詳しい。企業人事に対するコンサルティングと研修講師としての活動や社会保険労務士に対するメンタルヘルス対応スキルの教育にも傾注している。 |
