亀田 高志
株式会社産業医大ソリューションズ
代表取締役社長・医師
地震、津波、竜巻、台風、暴風雨、水害等、多くの危機による被害を毎年のように経験している日本では、多くの企業が対策を行っているかのように感じられるかもしれません。しかし、実際にはその対応は不十分なことが多く、効果的な対策を阻むさまざまな問題や課題があります。今回は多くの企業でありがちな問題を取り上げます。
1.心構えや精神論は通用しない
さまざまな「人」の問題を取り扱う人事労務担当者であれば、人を正しい行動に導くためには、心構えや精神論だけでは不可能であるということを、十分に認識されているのではないかと思います。実は危機管理対策においても次のような例から同じことがいえるのです。
危機の中心では何が起きたか、分かりにくい
私は、2005年3月20日午前10時53分に発生した、福岡県北西沖を震源とするマグニチュード7.0、最大震度6弱の福岡西方沖地震を、北九州市内で経験しました。この地震で1名が亡くなり、福岡近辺で1000人を超える負傷者が出たとされています。私は一応東京育ちなので、地震には慣れているつもりだったのですが、日曜の昼前に、うとうとしていた最中に大きな揺れで起こされた瞬間には、何が起きたのか分かりませんでした。
福岡県で大きな地震が起きるという認識がなかったこともあって、それほど長い時間ではありませんでしたが、地震だと気づくにしばらくかかった記憶があります。このとき、北九州市内は震度5弱を観測しました(ちょうど1カ月後に再び大きな余震もありました)。
危機に直面したとき、人体にはそれを避けよう、あるいは外敵であれば戦おうとする仕組みが生まれつき備わっていると考えられています。職場のメンタルヘルスでいえば、それがストレスに対する感情面、身体面、そして行動面の反応になります。
太古の昔にはそれが人間を襲う獣であるなら、その反応は即座に機能し、襲われた人間の命を救うのに役立ったはずです。けれども、たとえ、交通事故や労災事故で数千人の人が1年で亡くなったとしても、現代日本では、安全で衛生的な環境が確保され、命の危険を感じることがありません。ですから危機に対する反応は鈍っているといえます。一方、例えば仕事の質や量、人間関係のような職場のストレス要因への反応は、日本で働く多くの人にとって慣れ親しんだものであるのとは対照的です。
もしも、大きな地震が起きたとき、安全でインフラにも被害がない場所では、その情報はネットやテレビ等で瞬時に伝わりますが、その中心にいて被災した人は、それがどれくらいの範囲でどれくらいの規模のものなのかを、把握するのは容易ではないのです。
危機はいつ何どき起きるか分からないと心構えを説いたり、冷静に行動するようにと心構えを諭しても、何が起きたか分からない状態に陥りやすい場合にはそうした訓示は役立ちません。
逃げ遅れる原因となる「正常性バイアス」
また、火災やその他の災害が目の前で起きているのに、なかなか逃げようとしない人がいることが、世界各国での危機事象において観察され、報告されています。
例えば、煙や音で、火事だとすぐに気づき、恐ろしいから飛び出すはずであると安全な状態の人は考えます。けれども、煙が立ち込めているのに、携帯をのぞき込んだままだったり、リゾート地のような場所では、そのまま食事を続けようとする人が少なくありません。あるいは誰かと逃げるべきか相談し始めたり、遠い家族にまでその助言を求めることさえあるようです。即、逃げなくてはならないのに…。
煙のスピードは垂直方向には、毎秒3~5m、横方向でも毎秒50cmに及びます。つまり、ビルや建物の中に何も遮るものがなければ、たった数分で煙が充満することになります。
加えて、火災の煙の中には一酸化炭素や有毒なガスが含まれています。例えば、酸素を運搬する血液中のヘモグロビンとの結合力が、一酸化炭素では200倍以上も強いと考えられています。いったん吸い込んでしまうと一酸化炭素が蓄積し、酸素を肺から取り込むことができなくなり、意識を失って倒れ、死に至ってしまいます。
ですから、できるだけ速やかに避難すべきなのですが、自然災害や事件、事故の場合にも大丈夫だろうという姿勢、態度で避難のタイミングを逸してしまうことが少なくないのです。
こうした反応は「正常性バイアス(偏り)」と呼ばれていますが、人間がいわば、外界をどのように知覚し、反応するかという「認知」が現実の課題にうまく機能できないケースです。この面も、心理的、生物学的な反応ですから、"心構え"を説いたり、"精神論"を振りかざしても、効果が上がりません。
物品を含む不十分な備蓄
同じように心構えや精神論では解決しない問題に、物品の備蓄があります。
高度に発達した現代の物流、あるいは24時間体制で昼夜なく食料品や日用品を当たり前のように買うことができます。こうした状態が人間の歴史の中ではまれなことであり、個人の立場からも、その幸運を強く意識できている人は少ないといえます。
現実には一度大規模な自然災害が起きると、
・物流の仕組みが停止する。(水、食料等の物品の不足)
・インフラが破壊される。(電気、水道、ガス、電話等の停止)
・医療等のサービスが機能不全になる。(治療を受けられない等)
――という、われわれの生存を脅かす状況につながります。
そうした場合には、各々に対する備蓄や備えがあるかどうかがポイントになります。
例えば、水、食料等は、会社や工場内にとどまる人がいれば、あるいは帰宅困難の可能性があれば、その人たちが数日は困らない両を準備しておく必要があります。また、水洗トイレの使用ができない状況では、既存のトイレでは使用する際に多くの人が困難を覚えるようになります。そうした場合のためには簡易トイレを用意する必要があります。また、停電し、ネットがつながらないようなときのためには、ラジオや乾電池が必要になります。
自然災害で、けがをした場合には、救急車の利用が困難で、医療機関そのものも被災していることが少なくありません。そうした場合の応急措置の備えがない、あるいは個人では常備薬や常に服用している処方薬の不足によって、さらに身体への影響を残してしまう可能性もあります。
こうした現状も、心構えや精神論では解決しません。会社内で同意を取ってコストをきちんとかけ、備蓄を行い、さらに有効期限のあるものには更新をして、いつも使える状態にしておく必要があるのです。従業員の一人ひとりが個人や家庭環境でも同様に準備できていなければ、危機による被害、損失や関連するリスクを低減するどころが、マンパワーさえ確保できない状況に陥ってしまうのです。
2.行事と化した訓練では効果が出ない
次に現在、9月1日あたりによく行われている避難訓練の様子を見てみましょう。
①決まった時間に"地震が起きた"と社内で放送が入る。
②一定時間、デスクの下などに身を隠すふりをする。
③今度は避難の指示が放送される。
④訪問した顧客や取引先の人に対応している人以外は、決まられたルートで、のんびり歩いて、避難する。
⑤社屋前の駐車場等に集合し、点呼を取る。
⑥けが人が1人出たという設定で、そのけが人を担架で運ぶなどすることがある。
⑦火災が起きたという想定で、消火器の使用練習を数名で行うことがある。
⑧地元の消防等の関係者が講評を行う。
⑨終了後はエレベーターを使用せず、歩いて自分たちのフロアに歩いて戻る(なんで歩きなのかと文句が出ることもある)。
こうした訓練は、もちろん行わないよりは行ったほうがよいのですが、本当に効果的であるかどうかは疑わしいのです。
例えば、地震の場合にのんびりと歩いて、決められたルートどおりに避難できるとは限りません。もしも火災が同時に起きれば、煙がすぐに充満してきます。立ったままの姿勢では一酸化炭素を吸い込んでしまいます。ですから、ハンカチや無ければ襟袖を手持ちの水、お茶で湿らせて、四足やしゃがんだ姿勢、場合によって伏せたまま、前進し、移動しなければなりません。
停電してしまえば、真っ暗な中、火の音や悲鳴を聞きながら、手探りで非常口や出口を探しつつ、逃げなければならないかもしれません。なんとなく行事として参加するのではなく、そうした模擬体験を通して、現実起きてしまった状況に、頭ではなく、身体で対応できるようにするべきなのです。
一方的に話を聞く座学形式に近い訓練もありますが、そういう場合にも効果的とはいえません。知識よりも行動が大切だからです。
加えて、火災や地震のような事象には実地訓練を行うことができますが、竜巻や台風、風水害等を実地で訓練できる機会はまれです。新型インフルエンザのような感染症も実地で訓練を行う機会はあまりないのではないでしょうか。
そうした場合には被災する流れをシナリオにした関係者間、あるいは社員のための会議形式の机上訓練を行うこともできます。机上訓練であれば、会議だからといって、単なる絵空事にはなりません。例えば、最悪のシナリオを想定し緊張感を持って、対策手順を検討することで、既存の対応の妥当性を検証することもできます。
このように考えると行事のような訓練は時間と労力の使うのみで決して効果的とはいえないことが分かるのではないでしょうか。
3.縦割り組織の影響で対策が統合されない
さて、人事労務としての危機管理対策をこの連載で取り上げていますが、私が顧客企業でよく聞くのが、次のような縦割り組織の問題です。
①環境管理や労働安全は、総務部門や、一部は生産管理部門が行っている。
②顧客からの要求は品質管理部門が対応しており、その中にも危機管理に関連する内容が含まれている。
③対外的な対応のリスクは本社系のリスク管理部門が取り扱っている。
④持ち株会社や親会社との関係では危機管理は内部統制やコンプライアンス部門が対応する。
⑤危機に対応する医務室や健康管理部門は、社内組織上は在り様がさまざまないし組織図上には描かれておらず、独立している感がある。
⑥各々の会議に人事労務は参加を要請されることがあるが、主体的な関与はない。けれども事件や自殺、事故といった問題は管轄している。
これらの縦割り組織の問題は、前回触れたような危機管理対策の目的や目標を達成するための大きな、いわば人為的な障害になり得ます。言うまでもなく、縦割り組織の問題は現代の企業や公共団体における普遍的な課題でもあります。
ただし、危機管理対策に限れば、前回、触れたように従業員である人は全ての対応の基礎的な資源であり、それを管轄する人事労務が起点となり、部門ごとにバラバラになっている危機管理対策を統合していく役割を担うことができる可能性があるとも考えることができるでしょう。
危機に対応するのは真剣勝負です。そうではなくては、本来の目的や目標を達成することは難しいのです。しかし、今回触れたように、危機管理対策には陥りがちなさまざまな問題があることを、対策を詳しく考えていく前に理解しておくことが大切なのです。
![]() |
亀田高志 かめだ たかし 株式会社産業医大ソリューションズ 代表取締役社長・医師 1991年、産業医科大学医学部卒。国内大手企業ならびに米国外資系企業の専属産業医とアジア太平洋地域担当、産業医科大学講師を経て、2006年、産業医科大学による(株)産業医大ソリューションズ設立に伴い現職。企業における健康確保対策の構築と健康管理活動の事業化が専門で、職場のメンタルヘルス対策や危機管理対策に詳しい。企業人事に対するコンサルティングと研修講師としての活動や社会保険労務士に対するメンタルヘルス対応スキルの教育にも傾注している。 |