2022年12月23日掲載

Point of view - 第219回 黒木康正 ―海外駐在員・出張者を守るために人事が取り組むべきこと ―ISO 31030 渡航リスクマネジメントガイドライン―

黒木康正 くろぎ こうせい
インターナショナルSOSジャパン株式会社
セキュリティディレクター、ノースアジア
CBCI(Certification Business Continuity Institute)

防衛大学校卒、英国ロンドン大学戦争学修士、米空軍航空情報幹部課程履修。航空自衛隊で主に情報幹部として勤務し、新潟中越地震災害へ派遣。インターナショナルSOSジャパンでは、渡航リスクマネジメントのスペシャリストとして、日本企業向けのコンサルティングや研修を数多く提供。

不安定化する国際情勢と海外駐在員・出張者のリスク管理

 2022年2月末に始まったウクライナ危機は、20世紀の遺物と思われていた"大国が直接関与する紛争リスク"が現実のものであると、海外駐在員・出張者を多く抱える企業に改めて認識させることとなった。
 東アジアに目を向けると、トランプ前米政権から続く「新冷戦」とも称される米中対立構造の中、台湾海峡を巡る緊張が続いている。中国の習近平国家主席が「異例」の3期目を迎える一方で、米国側は台湾防衛の関与強化を続けており、同緊張が近い将来、解消される可能性は低い。このような状況の中、当社顧客の多くが台湾海峡での軍事衝突に備えた準備を開始している。地政学リスクに備えた安全対策への各企業の取り組みは、2017年の朝鮮半島情勢の緊張が高まった時に比べ、明らかに強まっている印象にある。
 さらにコロナ禍を受けて、「持続的な事業継続のために、人の健康が重要な経営資源である」という認識の広まりがあったことが推察される。特にコロナ禍でパンデミックの危機管理を手探りながらもやってきた海外人事担当者の焦点は、各国の国境再開に合わせて、海外駐在員・出張者のリスク管理、すなわち「渡航リスク管理」に向かってきている。しかし、ここで一つの問いが立ち上がる。
「何をどこからどのように始めればよいのか」
 海外リスクとなった時点でリスクの幅は、国内に比べ明らかに広がり、そして、取り扱う国や地域も多種多様なため、社内で統一したリスク管理の仕組みを構築するのは不可能にも思える。また、海外人事担当者の本業は多くの場合、リスク管理ではないため、その時点でお手上げといった声も上がる。この課題に対して一つの回答となるのが、本稿で紹介する「ISO 31030:2021渡航リスクマネジメントガイドライン」である。

ISO 31030:2021 渡航リスクマネジメントガイドライン

 渡航リスクマネジメントガイドラインは、その番号からも明らかなように「ISO 31000:2018 リスクマネジメント規格」のファミリーの一つである。このISO規格は、リスクマネジメントの手法に関するガイドラインであり、ISO 31030は、リスクの中でも業務関連の旅行に特化したものだ。この規格自体は、海外駐在員・出張者だけに焦点を絞ったものではないが、普段の勤務地とはさまざまな面で異なる環境で勤務する人に対するリスク管理のガイドラインであることは確かである。
 例えば、インドのように州によって民族・文化・言語が違うような国であれば、国内出張であっても渡航リスク管理は必要となる。日本企業にとっては、日本国内はほぼ均一な環境であり、リスク管理の対象はおのずと駐在員や海外出張者に絞られ、渡航リスク管理はすなわち海外リスク管理となる。ガイドラインはその参考書的な位置づけであり、渡航リスク管理に着手する上で格好の入り口といえる。
 さて、ISO 31030の中身はいたってシンプルである。業務関連の旅行者のリスク管理を組織立って行い、PDCAサイクルを回そうというものだ。PCDAサイクルとはP(Plan)、D(Do)、C(Check)、A(Act)の一連の流れを繰り返し、継続的な改善を図っていくことであり、渡航リスク管理に限らず、マネジメント関連の規格では必ず求められる要素である。

 このPDCAに基づいて見ていくと、ISO 31030は次のように分解できる。

・Plan:自社の事業環境・渡航者の状況を把握し、渡航リスク管理に対する経営層のコミットメントを取り付け、担当者と責任の範囲を定め、ポリシー/マニュアルを策定して渡航リスク管理プログラムを立ち上げる。

・Do:策定したポリシーやマニュアルに基づき、各赴任・渡航先の定期的な渡航リスク評価(特定・分析・評価)を行い、必要な渡航リスク対策を立てて、関係者に周知する。そして、渡航期間中も含めて情報収集し、必要な情報を提供する(安否確認を行うことも、ここに含まれる)。

・Check:Planの段階であらかじめ特定しておいたKPI(Key Performance Indicator)に基づき、渡航リスクプログラムの効果測定を年に1度のペースで行う。また、緊急医療搬送や国外緊急退避といった危機対応の事例があった場合、しっかり対応記録(ログ)を取り、対策とその効果についても振り返ることも、ここに含まれる。

・Act:Checkの中で明らかになった問題点を踏まえ、再び渡航リスク管理プログラムに落とし込み、関係者への周知・教育を行っていく。

 以上が簡単な紹介となるが、ISO 31030で特に注目すべきは渡航リスク対策である。PDCAに落とし込んだ駐在員や出張者のリスク管理はある程度想定できるが、渡航リスク対策の具体的手法については、これまで広く知識が共有されてきていなかった分野である。リスクマネジメントの手法である「回避」「制限」「分担」「低減」の四つの軸から整理されており、渡航者本人が取るべき対策、企業が組織として準備すべきことが整理されている点が特徴だ。大枠を捉えた上での、個別状況における落とし込みは必要であるものの、渡航リスク対策のアプローチを検討する上で非常に有用であるといえる。

海外人事担当者が取り組むべきこと

 最後にISO 31030の登場を受けて、海外人事担当者が取り組むべきことについて述べたい。ISO 31030はISO(国際標準化機構)のWebサイトで有償で公開されており、PDFまたは紙媒体で購入することができる(英語またはフランス語)。まず、可能であれば、ISO 31030を読んで、その基礎を押さえる。それが叶わないのであれば、自社従業員の駐在先や、海外出張者が多く赴く国や場所に関するリスクの洗い出しを行う。そして、リスクの洗い出しを行ったら、次はどのような対策を取っているのかを把握する。分かりやすいところでいえば、赴任前に健康と安全に関する研修を行っているか、急病などの緊急時に即座に支援を受けられる体制が取られているか、などである。
 このような、予防のための教育や危機発生時の対応を効果的に行うための対策の整備を行った上で、ポリシーやマニュアルを策定していくのも一つのアプローチといえる。教科書どおりPDCAを回すことは重要である一方で、渡航者に対するリスクは、いつ危機として立ち現れるかは分からない。よって、対策に不安がある場合、まずはそこを手当てして、ポリシーやマニュアルを整備するというステップを踏むことも決して間違いとはいえない。
 本稿をきっかけとして、ISO 31030渡航リスクマネジメントガイドラインに関心を持っていただき、海外で働く従業員のリスク管理を考える上での一助となれば幸いである。