北崎 茂 きたざき しげる
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
シニアマネージャー
これまで3回の連載の中では、人事データの活用が今後の人材マネジメントの在り方を変えるということ、さらには、その具体的な事例として、外資系企業での取り組みについて紹介してきた。最終回となる本稿では、実際に日系企業が、こうした人事データ活用を進めていくに当たり、どういった課題が存在し、どのような解決手順が存在し得るのかについて解説を進めていきたいと思う。
■人事データ活用に向けた五つの乗り越えるべき課題
データを基軸にした分析や意思決定を行うに当たっては、データ項目の整備から、多変量解析などの統計学にまつわるスキルの問題、さらにはそうした分析を進めるための仮説設定力など、さまざまな課題を解決していく必要性がある。一般的にデータサイエンティストと呼ばれる職種には「コンサルティングスキル」「ITスキル」「統計解析スキル」の三つの要素が必要になると言われているが、人事の世界におけるデータ活用には、こうしたスキル面での話に加えて、さらにいくつかの乗り越えなければならない要素が存在する。
[図表]に示した内容は、データ分析の世界的な権威でもある米バブソン大学のトーマス・H・ダベンポート教授が提唱する「DELTAモデル」というデータ分析を成功させるために必要となる五つの要素をまとめたものである。この要素になぞらえて、日系企業が抱える人事データ活用に向けた課題について解説を加えてきたい。
[図表]データアナリティクスに求められる五つの要素(DELTAモデル)
Data(データ): 質の高いデータの確保
企業がデータ分析を活用して競争力を生み出していくに当たっては、質の高いデータが求められるということは言うまでもない。他社とは違う観点でのデータを保有しているからこそ、それが独自の視点やアイデアを生み出す源泉となり得る。これは企業の製品開発やマーケティングで特にあてはまる話であるが、人材マネジメント上でのデータ管理に目を向けてみると、個人の基本的な属性データから始まり、移動歴やスキル、評価、給与情報など、人事オペレーションを運営していくために必要となる基本的なデータはきちんと整備して管理しているものの、新たな視点や判断基準を生み出すような切り口のオリジナリティの高いデータを管理しているケースは多くはない。
第3回でも紹介したグーグルの例を取るならば、採用時に「コンピュータに関心を持ち始めた年齢」「非営利団体の参加・創設経験」といった他社ではあまり例を見ないデータを収集し分析しているが、これによりグーグルという会社で高いパフォーマンスを発揮する人材を獲得するための独自の分析基準を創り出し、人材獲得の精度という観点において他社との差別化を図る要素の一つを生み出している。
人事データの管理というと2000年初頭からERP(統合基幹業務パッケージ)を中心とした、いわゆる「標準パッケージ」を活用した管理モデルが日系企業の間でも広く普及し、その機能を利用することで従来のシステムでは課題とされていたデータの標準化や履歴管理を実現してきた。しかし逆に、この「標準」という形にデータ管理を強く当てはめすぎ、多くの企業で自社独自のデータを管理するという発想を低減させている傾向があるようにも見える。これまで紹介してきたように、多くの先進企業では人事データ分析を、人材マネジメント上の一つの競争優位性の源泉の一つとして捉えており、日系企業においても、自社だけが持つデータの重要性を再考する必要性があるのではないかと考える。
Enterprise(エンタープライズ):個別業務視点よりも組織をまたがる視点が必要
次に挙げられるのは企業の全体管理の視点である。単純に言えば人事システムの中だけで分析を行うのではなく、財務システムや営業管理システムなどの、ビジネスに直結する情報との関連性を見ることで、人材マネジメントが真にビジネスに寄与しているかを判断できるようにするというものである。組織別売り上げと従業員満足度や育成投資費用などの関係性の分析などが分かりやすい例であろうが、実際の現場では、こうした分析を躊躇(ちゅうちょ)しがちな傾向がある。
多くの企業ではよくも悪くもそれぞれのデータ項目に関して、所管する組織の職務内容に照らし合わせて正確な権限管理を行っており、売り上げという財務・経理部門で管理されている情報と、育成投資や従業員満足度という人事部門で管理されている情報を組み合わせて分析するためには、部門をまたがった調整が必要になることもある。たとえそれが有用な分析であったと分かっていたとしても、結果として着手を後回しにしてしまうような傾向がある。
このような状況は、実は人事部門の中でも起こっている。その象徴的な例と言えるのが、採用応募者と従業員のデータ管理であろう。優秀な人材を獲得するという観点に立つと「どういった人材が自社に興味を持ち、入社後に高いパフォーマンスを発揮したのか」「本当に自社で活躍できる優秀な人材を見落としていないか」といった課題に応えるべく、応募者の母集団形成の段階から、入社後のパフォーマンスまでを一貫した課題分析を行うことも求められてくる。しかしながら応募者のデータは採用担当者が、従業員のデータは労務や異動の担当者が所管するといった具合にその管理主体が分かれており、組織や担当領域の壁が必要となる連携を阻害する要素の一つとなっている。
もちろん人事部門の中で情報の連携を行う分には、そこまで障壁があるものではないが、実際にはそれだけでなく、応募者と従業員のデータは分離されたシステムで管理されているケースも多く、こうしたシステム上の連携上の手間なども、組織間で連携した分析への足かせとなっている。
こうした状況を打開するためには、各組織が自主的に連携するように何らかのインセンティブを与えるようにするのも一つの手かもしれないが、日々の業務に奔走する業務担当者にこういった要求を求めることはなかなか容易ではない。
一つの有効な手だてとして考えられているのは、独立した人事データの専門分析組織を立てることである。これはグーグルをはじめとする人事データ分析を先進的に進める企業で多く採用されている手法でもあり、人事部門の中に(場合によっては間接部門全体の中で)、独立したデータ分析専門の組織を設置し、あらゆるデータへの参照権限を与えることにより、部門の壁にとらわれることなく、俯瞰した観点から新たな分析視点を見いだすことを可能にしている。位置づけとしては人事企画機能に近くなるが、データ分析に対するミッションを明確に持った組織体を設置することで、人事部門内全体におけるデータ分析の意識を高める副次的効果をもたらすことも期待できる。
Leadership(リーダーシップ):人事のデータ分析を推進する強いリーダーシップ
人事のデータ分析を推し進めていくに当たり、最も重要な要素となるのが、データアナリティクスという概念を牽引するリーダーの存在であろう。データ分析の世界は言うなれば試行錯誤の繰り返しであり、単純に明瞭な結果が出るものでもない。さまざまなデータを組み合わせて何度も分析することにより、はじめて優位性のある示唆を得ることができる。しかしながら、データ分析に対する一定の仮説や期待値をリーダーとなる者が明確に持たなければ、その費やした分析時間に対して的確な評価することができず、ただ冗長な作業を繰りかえすだけに終わってしまい、さらには周囲からは費用対効果が悪いと評されるような結果を招いてしまう。
データ分析を牽引していくリーダーには、求められるプロセスの効率性を判断するための分析手段に対する知識と経験、意思決定能力、さらには分析結果を活用する周囲のステークホルダー(経営者など)に対して、的確な期待値のコントロールを行うなどさまざまな要素が求められてくるのである。
こうした人材を人事部門の中から育成していくには容易な話ではないが、一方で会社全体を見渡すと、人事という専門領域の知識を除けば要件を満たしている人材は一定の規模で存在する可能性が高い。近年、日系製造業でもよく見受ける例であるが、開発部門にいる研究者やデータアナリストを人事部門に異動させ、こうした業務のリーダーに据えるケースが増えてきている。当然ながら、人材マネジメントに関する知識など不足する部分については周囲の人事専門家が補完する必要性があるが、求められるスキルセットを早期に調達するという観点に立てば、有効な打ち手の一つと言えるであろう。
Target(ターゲット):効果的な分析投資先を見極める
人事のデータ分析の可能性を考えると、そのパターンは数多(あまた)存在する。しかしながら限られた人的リソースや予算を考えると、そのすべてを実行していくことは不可能といっていい。ましてやデータアナリティクスという概念が認知されていない企業であれば、その難易度はさらに高まるであろう。こうした取り組みの初期段階においては、特に投資すべき分析対象の有効性を見極め慎重に選定していくことが必要となる。そのための判断基準として重要となる要素が三つ存在する。
一つ目は当然ながら経営や事業運営上の重要課題と連動するものが望ましい。第2回で取り上げた退職リスク分析のように、退職率の改善という課題が人材マネジメント上の最優先課題であれば、そこから分析の取り組みを始めるのは、経営層からのデータ分析に対する関心を高めるという観点からも賢い判断である。
二つ目はデータが潤沢に存在することである。現状として存在しないデータを前提にしたデータを集めようにも、人材に関わるデータは従業員から情報を集めなくてはいけない項目などもあり、かなりの工数が必要となってくる。自社の競争優位性の構築という観点からは、前述したとおり、自社の独自性のあるデータを創り出していくことが重要であるが、初期段階においては、現時点で存在するデータから始めるほうが費用的効果の観点からも有効な手だてと考える。
そして三つ目の要素となるのが、コントロール可能な施策につなげる分析を行うということである。例えば報酬水準の分析をしたとしても、その水準をコントロールできるような原資が当面確保できていない状況であれば、せっかく行った分析も効果を得るのに時間を要してしまう。分析対象の選定に当たっては、どんなに精緻な分析が可能であったとしても、その結果から得られる示唆が実行につなげにくいものであっては意味がなくなってしまうため、分析初期段階から留意しておく必要がある。
Analyst(アナリスト):人事のデータアナリストに求められること
人事のデータアナリストに求められる要素は多岐にわたるが、特に重要となるものについて三つほど挙げておきたい。
まず一つ目であるが、これは言うまでもなく「統計分析スキル」であろう。しかしながら人事の領域では、マーケティングなどの領域で求められるような数億というデータや、数千という項目を取り扱うわけではなく、必要となる分析手法も限られている。また近年ではさまざまな簡易的な統計分析ツールが充実していることもあり、まずはこうしたツールを使い始めてみるというところかスタートするのもよいかもしれない。
二つ目は「仮説設定力」である。データ分析の最も肝となる部分ともいえ、この仮説設定の力によって分析結果の成否が決まるといってもよい。第2回でも触れた退職リスク分析の例を挙げると、有意性のある退職要因(上司の能力、通勤距離によるストレス、同僚の離職の増加など)を事前にどの程度洗い出せることができるか、そしてそれが人事情報の中の何を使えば指し示すことができるかという発想力も求められてくる。
人事の業務に長く従事していれば、ある程度の予測はつくかもしれないが、現場の各部門で発生している人材マネジメント上の課題に関して、情報鮮度や精度面でのギャップが生じているケースもあり、先進的な企業ではより現場に近いHRビジネスパートナー(事業部もしくは機能部門付きの人事企画担当者)との協働によって、こうした仮説能力を補完してきている。
そして三つ目は「コンサルティング能力」である。コンサルティングという表現はややあいまいと思われるかもしれないが、分析された結果を経営者や他のステークホルダーに報告する際には、分析の前提となっているテクニカルな手法などを、誰でも理解できるようにかみ砕いて説明した上で、提案したい施策につなげるためのストーリーを理路整然と語る力が人事のデータアナリストには求められてくる。
こうしたスキルのすべてをすぐに育成するということは容易な話ではない。外部からそうした専門家を調達するという手段もあるが、それが困難である場合には、前述したように開発部門から統計分析の専門性をもった人材を登用する、現場に精通するHRビジネスパートナーとの協業を進めるなど、組織全体として求められるスキルの補完を行っていくことが、人事のデータ分析を推進する初期段階では有効な手段であろう。
■データ分析に対する経験値を早期に蓄積し人材マネジメントの競争力につなげる
ここまで、人事データ分析を推し進めるに当たっての課題と、その解決に向けた手段の一例について紹介してきたが、最も重要となるのは「まずはやってみる」という点にあると考えている。データの分析というのは、その仮説設定能力や分析結果も含めて、繰り返し行うことで、データ分析に対する経験値が蓄積され、新たな示唆が得られる可能性とその精度を高めることができる。前述でも触れてきたように、まずは有効性が高く、現時点で入手・収集が可能なデータから分析を始めてみるという歩みを踏み出すことが、将来的な人材マネジメントの競争力の向上につながるということをあらためて強調しておきたい。
(参考文献)
Competing on talent analytics Harvard Business Review
Analytics at Work: Smarter Decisions, Better Results
北崎 茂
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
シニアマネージャー
慶応義塾大学理工学部卒業。外資系IT会社を経て現職。人事コンサルティング領域に関して10年以上の経験を持つ。組織設計、中期人事戦略策定、人事制度設計から人事システム構築まで、組織/人事領域に関して広範なプロジェクト経験を有し、特に人事を含めた間接部門の組織設計においては、外資系企業から日系企業まで多数の企業における実績を有する。現在は、人事部門構造改革(HR Transformation)・人事情報分析サービス(HC Analytics)におけるPwCアジア地域の日本責任者に従事しており、さまざまな外資系企業でのプロジェクト導入・セミナー講演・寄稿を含め、国内でも有数の実績を誇る。