北崎 茂 きたざき しげる
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
シニアマネージャー
■はじめに――データアナリティクスがもたらす人事部門の変化と可能性
ここ数年、「データアナリティクス」や「ビックデータ」という言葉が世間の注目を集めるようになってきた。多くの企業が、顧客の志向性分析や、営業マンの行動分析、マーケティングの費用対効果分析、さらには不正防止予測など、営業・マーケティング・リスクマネジメントなど事業を取り巻くさまざまな領域での活用を急激に進めているが、実は、こうした動きは人事の領域においても例外ではない。先進的な企業では、ハイパフォーマーの特徴を調べるに当たり、通常の人事情報のみならず、社内のメールデータや、FacebookやLinked-inなどソーシャルメディアのデータまでを分析の対象として、採用時の候補者の選考基準や、配置計画の判断基準に組み入れるなど、人材マネジメント上のさまざまな場面で活用を進めている。
これまで意思決定の際に「勘や経験」に頼りがちであった、「ヒト」という定性的な領域に、データを活用した定量的な判断基準や予測モデルを組み入れる動きが広がり始めていることは、人事部門にとって一つの大きな変化であると言える。こうした動きは先進的な外資系のIT企業などで特に顕著であり、その最たる例として挙げられるのが、インターネットサービスにおいて世界的なブランドとなっているグーグルであろう。グーグルでは、評価や採用などに関するさまざまな人事オペレーションに統計的な解析手法を持ち込むべく、人事に関わる全セクションの約3分の1に数学者もしくは統計学を専門とするスペシャリストを配置するなど、人事のデータ活用に対する動きは他社と一線を画すものがある。
では、日系企業を振り返ってみるとどうであろうか。多くの経営者が「ヒト」は最大の経営資産であるという言葉を口にする中、その「ヒト」を扱う人事部門においては、いまだ勘や経験に基づく意思決定や仕事の進め方が定常化していると感じる方も多いのではないだろうか。例えば「今、わが社にいるハイパフォーマーの中で、今年度中に辞める可能性が高い人材は何%ぐらいいるのか?」「今行っている育成投資は、どれが有効で、リターンはどの程度なのか?」――こうした経営者からの問いに対して明確に答えられる企業はどの程度あるだろうか。
人材が重要な経営資産の一つである限り、それに対する報酬や育成コストなど、さまざまな投資に対してより適切な解を求めたくなるのは、経営者として至極当然な話でもある。しかし、実際に日系企業の人事担当者と話をしてみると、その多くが人事におけるデータ分析に関して課題意識を持っていない、もしくはそういったデータ活用の概念すら知らないというのが実情である。
こうした人事データの活用を指して、我々はHuman Capital Analytics(ヒューマンキャピタルアナリティクス、以下HCAと略す)と呼んでいる。本連載では4回にわたり、HCAにおいて実際にどのようなデータ活用の可能性があるのか、また日系企業がそうしたデータ活用を行うに当たり、どのような課題が存在し何に取り組むべきであるのか――先進的な外資系企業との具体的な事例との比較を交えながら解説を進めていきたいと思う。
■日系企業の人材データ活用は世界的に見ても後れを取っている
「タレントマネジメント」「グローバル人材育成」「ダイバーシティ」などの言葉に代表されるように、ここ10年ほどの間に人事はさまざまなテーマへの取り組みを要求されるようになってきた。それと同時に、経営層を含むさまざまなステークホルダーの人事に対する注目が飛躍的に高まってきていることは、多くの人事担当者が日々感じている部分ではなかろうか。
こうした変化の中で、新たな動きとして見られるのが人事のデータ活用(HCA)の領域である。私たちプライスウォーターハウスクーパース(PwC)が、2012年に実施したCEOサーベイ(全世界のCEO約1300名を対象に行った調査)によれば、「経営判断における人材データ活用の重要性」について肯定的な回答を示した割合は80%にも及んでおり、人事部門が提示する分析結果に対する経営層からの高い関心が数年前から示されていたことがうかがえる結果となっている。では、こうした経営からのニーズに対して、人事部門は現状として応えきれているであろうか。その対応状況は国別に見ると大きく異なり、とりわけ日系企業における人事データ活用の遅れが顕著に表れる結果となっている。
[図表1]に示す調査結果は、上記の調査から2年経った2014年に、全世界の役員層(執行役員を含む)約1130名に対する「人材データの活用度に関する満足度」を国別に示したものであるが、日系企業の調査結果を見てみると、全世界平均の53%の約半分である27%にとどまっている。またインド・オーストラリア・中国というアジア太平洋地域の先進的な国と比較しても最下位に位置づけられ、人事のデータ活用の側面においては、こうした先進諸国に大きな後れを取っているのが現状である。
[図表1]国別タレントマネジメントデータ人事データ活用度(クリックして拡大)
こうした差が生まれる要因の一つとしては、社内における多様性(ダイバーシティ)が大きく関係していると考えられている。日系企業の多くでは、1990年代まで、多くの企業で終身雇用の概念が強く残っており、多くの人たちが大学を卒業して就職し、そのまま同じ会社やグループ会社の中で経験を積んでいくケースがほとんどであった。結果として「金太郎アメ型社員」というような言葉にも示されるように、同じようなバックグラウンドや考え方を持った社員により形成される同質性の強い組織風土が多く生まれてきた。これは「阿吽(あうん)の呼吸」といった言葉にも代表されるように、コミュニケーションの効率性という面においてはうまく機能してきた側面もある。一方で、結果として定量的なデータに基づくコミュニケーションよりも定性的なコミュニケーションが好まれる傾向を生み出してきた要因の一つとも言える。
他方、欧米などの多くの先進グローバル企業などでは、人種、出身国、母国語、経歴などさまざまなバックグラウンドを持った人材が集うことも多いため、阿吽の呼吸のような、共通的なバックグラウンドを前提とした会話や意思決定など通じるはずもなく、定量的な数値を使ってコミュニケーションを取らざるを得ない環境であった。結果として彼らの意思決定の際には、定量的なデータが多く用いられるようになり、グローバル化が進む近年、その傾向はさらに強まってきている。
実際には、現在の日系企業でも外国人採用に注力するなど、多様性の強化という面でかなり力を入れているところもあり、かつてのように欧米企業との間で大きな差があるとまでは言わない。それでも、こうした背景がもたらす影響により、人事に関わる意思決定において、データの重要性に対する認識に差が生じ、そのことがこれからのグローバル競争下で日系企業が勝ち残っていく上で大きな障壁の一つとなる可能性もある。では実際に、先進的な外資系企業と日系企業の間にはどういった差があるのだろうか。
■人材のデータ活用には5段階の成熟度がある
~現状分析ではなく予測することに価値が生まれる~
データ活用における課題や現状を把握するためにも、まず人材のデータの活用度には、いくつかの段階があることを先に述べておきたい。[図表2]に示すチャートは、私たちプライスウォーターハウスクーパース社が提唱している「人材データ活用成熟度モデル(HCA Maturity Model)」であるが、この中では人材データの活用には五つの段階があることを示している。
[図表2]人事データ活用成熟度モデル(クリックして拡大)
まずレベル1~2の「単年集計」、「経年比較」であるが、これは退職率や採用人数推移などのように、従業員一人ひとりの属性データを単純に集計し、単年度の状況や経年での変化などを分析するものである。1990年代後半から注目を集めたERPシステムの導入などにより、現在ではほとんどの企業で、問題なく実現できている領域であろう。
次に、レベル3の「競争力比較分析(ベンチマーク比較)」であるが、これは報酬水準や離職率、教育投資など人材マネジメント上のデータを他社とベンチマーク比較し、自社の競争優位性を確保する上での判断基準を持つための分析を行うことを示している。
少しイメージが湧きやすいように、外資系製造業A社での人事におけるベンチマーク比較の例を取り上げてみたい。A社では人事に関するさまざまな課題を洗い出すために、人事部門の機能別人員数、例えば採用や育成、人事情報システムなどに従事している人員数の過不足や、採用コスト、育成コスト、社員1人当たりの育成時間、さらには人事サービスに対する従業員や役員の満足度など約30項目にわたるKPI[図表3]について、数年おきに競合企業との比較を実施している。A社ではこうした取り組みにより、退職率や従業員満足度のような、さまざまな人事施策やオペレーションの結果として生まれるデータだけなく、その要因となっている人事プロセスや、人事組織の構造や要員構成、人事のスキルに至るまでを分析して、より明確に人材マネジメント上の課題を浮き彫りにすることを可能としているのである。
実際に多くの日系企業でも、自社の報酬水準や従業員満足度調査などの他社比較を行い、意思決定の判断材料として活用しているが、こうしたレベルまで分析を深めている企業はそこまで多くないのではないであろうか。
[図表3]外資系製造業A社における人事KPI(クリックして拡大)
そして問題となるのが、[図表2]に示したレベル4の「要因分析」、レベル5の「予測分析」であるが、分かりやすいように退職率に関する分析を一つの例として取り上げて解説を進めたい。
まず「要因分析」であるが、これは退職率の悪化などのある特定の課題に対して、その要因となる要素を定量的に分析し特定するものであり、「退職率は○○%であるが、最も影響を与えている要因は何で、どの程度なのか?」という問いに答えるものである。また「予測分析」はさらに、「この施策を打てば退職率は○○年までに○○%まで下がる」という形で、施策実施の効果などを定量的に予測することを指している。
実際に従業員約4000人のサービス業B社では、ここ2年間でこうした分析を強化してきており、過去の退職者のさまざまな特性をモデル化することにより「従業員の退職に最も影響を与えているのは、上司の能力であり、その割合は約28%である」ということを特定できている。分かりやすく言えば、ハイパフォーマーの部下に対してローパフォーマーの上司をつけた場合、考え方のギャップや、ロールモデルとして上司を見るができないなどの理由により退職を意識してしまうという傾向が強いということと、その影響度を特定できている状態であり、さらには、そうした課題への改善策を講じることにより「2年間で退職率を現状の19%低減できる」という予測値までを打ち出すことを可能としている。
おそらく多くの企業で、退職要因の特定という面では、問題なく課題を把握できているであろう。現場の部長層や、人事担当者に聞けば、迷うことなく「報酬」「職場の雰囲気」、「リーダーシップ」などさまざまな答えが即座に返ってくる。しかしそうした中で「優先度をつけると」という質問になると、「いろいろな要因が複雑に絡み合っているから」という曖昧な答えに変わってしまう。もし時間にも予算にもゆとりがあるのであれば、想定できる課題に対して、さまざまな施策を試していくことができるであろう。しかし、現状の多くの企業が直面しているグローバル競争下においては、国内のみならず海外各国で起こる事業環境や労働環境の変化に対して、限られた予算の中で迅速に対応する意思決定が求められてくる。そうした中で、人事データ活用におけるレベル4や5の領域は、こうした意思決定モデルを支える重要な差別化要素の一つとなり得るのである。
また、レベル4、5に示すような分析は、退職要因の分析のみならず、人員の需要予測や、採用時の候補者の選考基準、トータルリワードの設計に至るまで多岐にわたる。こうした分析手法の内容については第2回・第3回の連載の中で触れていきたいと思うが、冒頭にも述べたように、人事データの活用は、人材マネジメント上のさまざまな領域で、その在り方を変えつつあるのである。
■人事データ活用に向けたチャレンジ
上記でも述べたように、日系企業の人材データの活用成熟度レベルは、おおむねレベル3程度にとどまっており、対してグローバル競争の相手となる外資系企業ではレベル4、5の取り組みを始めているという差が出ている。では、こうした差を埋めていくためにはどういったことが必要になるであろうか。
人事関係者から「そもそも人事において、ビックデータやデータアナリティクスというような大層な話を持ち出してまで何か意思決定をする必要性があるのだろうか」という質問を受けることが少なくない。ビックデータという考えには諸処の定義が存在するが、多くの考えでは「多量・多種」であることが前提となる。マーケティングの領域では1億を超えるデータ、何千種にわたるデータ項目を基に分析を進めることがあるが、正直なところ、人事にはここまでのアプローチは現状としては必要ない。筆者を含めた多くの人事データ分析における専門家と議論を重ねても、人事に求められるのはビックデータと呼ばれるような世界ではなく、必要なデータ量と種類からすると、どちらかと言えば「ミドルデータ」ぐらいであろうという話が出てくる。
しかしながらこうした会話の中でも、このような分析を実現していくには、今までの人事部門にはなかったスキルや仕事の進め方が求められるということが、大きな課題認識として浮かび上がっている。具体的には、実際に現場でどういった課題が発生しているかを探る情報収集力や仮説構築力、その仮説を検証するための統計分析知識や、多量・多種のデータを分析するための統計ツールを活用できるスキル、さらにはそうしたデータを活用して現場や経営層と調整、交渉を行うためのコミュニケーションの仕方などである。これらについては、連載の第4回で日系企業での先進的な取り組みなどを紹介しながら、具体的な解説を進めていきたいと思うが、こうした人事データ活用に向けたチャレンジにより、今後のグローバル競争環境下で、大きな差別化要素を生み出せる可能性があるということをここであらためて強調しておきたい。
(参考文献)
Competing on talent analytics Harvard Business Review
Analytics at Work: Smarter Decisions, Better Results
※編集部より:本記事は全4回、隔週連載の予定です
北崎 茂
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
シニアマネージャー
慶応義塾大学理工学部卒業。外資系IT会社を経て現職。人事コンサルティング領域に関して10年以上の経験を持つ。組織設計、中期人事戦略策定、人事制度設計から人事システム構築まで、組織/人事領域に関して広範なプロジェクト経験を有し、特に人事を含めた間接部門の組織設計においては、外資系企業から日系企業まで多数の企業における実績を有する。現在は、人事部門構造改革(HR Transformation)・人事情報分析サービス(HC Analytics)におけるPwCアジア地域の日本責任者に従事しており、さまざまな外資系企業でのプロジェクト導入・セミナー講演・寄稿を含め、国内でも有数の実績を誇る。