2012年04月26日掲載

トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - 年々薄れていた「先人の教訓」。リスクと“正しく向き合う”組織が強い――さいとう製菓株式会社 齊藤俊明さん(下)

 


 

   撮影=池上勇人

齊藤俊明 さいとうとしあき
さいとう製菓株式会社 代表取締役社長
1941年岩手県生まれ。高校卒業後に盛岡の警察学校に入学後、1960年のチリ地震による津波被災を受けて進路を断念。家業のさいとう製菓(当時は齊藤餅屋)に入社。1984年に42歳で父の跡を継ぎ、社長に就任。「かもめの玉子」を東北有数の銘菓に育て上げる。震災後の一連の対応が評価され、「毎日経済人賞」(毎日新聞社)や「岩手日報文化賞」(岩手日報)などを受賞。

東日本大震災と大津波で、甚大な被害を受けた三陸地方だが、さいとう製菓の人的被害はゼロだった。日ごろから避難訓練を徹底した成果だ。
「備えあれば憂いなし」といかない災害でも、対策次第で被害の軽減は可能。
従業員が無事なら早期の復興にもつながる。その準備もまた「組織力」だ。

取材構成・文=高井尚之(◆プロフィール

 「3.11」後、さいとう製菓は、意外なところから知名度が高まった。
 前回紹介した、「かもめの玉子」を避難所に配った話ではない。自ら被災した状況を収めた映像が、動画サイト「ユーチューブ」で評判となったのだ。
 金曜日の日中に起きた東日本大震災は、多くの人が映像や写真で記録していた。その中でもさいとう製菓の映像は生々しく、NHKの震災特別番組でも紹介されたほどだ。

高台に避難して撮った「惨状」

 まずは以下のサイトにアクセスして、8分ほどの内容をご視聴いただきたい。
 大船渡市の高台から撮影した大船渡港付近の映像で、撮影したのはさいとう製菓だ。
 http://www.youtube.com/watch?v=N58tJucmVbU

  海岸から数百メートルの場所で、津波の状況を見ながら撮影する年配らしき男性の声が流れる。初めの段階では、それに応える女性の声も収録されている。
 「ああ、(津波が)来てしまった」
 「あ、本当だ……」
 まだどこか余裕のある口調が、やがて一変する。

 「何だ、堤防越えてしまったぞ」「おいおい」
 「やだ~」
 津波が護岸を乗り越え、市街地に流れ込むにつれて、どんどん切迫感が増す。
 「ああああああ」「何が防潮堤だよ~」

  さらに勢いを増した津波が、建物や家屋を根こそぎなぎ倒し運ぶのを、撮影する映像と合間に発する声が痛々しい。つい先ほどまで仕事をしていた建物が、過ごしていた家が、目の前で破壊されるのが悲痛な叫びとともに記録されている。
 「ああ~、収まってくれえ、収まってくれえ~」
 「ああ、あ~、全部ダメだ」
 「おおい逃げろ、逃げろ、ダメだ」という声とともに映像は途切れる。

 インターネット上では、さいとう製菓社長の声とも紹介されたが、実は実弟の賢治さんの声だ。前回紹介したように、社長の齊藤俊明さんは、発生時は盛岡市にいたからである。
 「本店の後ろの高台から専務(賢治さん)が撮影しました。弟と私は声が似ているので間違えられたのでしょう。どちらの専務(齊藤賢治さん、川島憲郎さん(前専務))も専用機材を持つ撮影のプロですが、あの映像は泣きながら撮りました。私も観たけど泣けてくるよね」

 

津波で1階部分が大きく損傷した本社・総本店(上)と和菓子工場(下)。現在は高台に機能を移して企業活動を行う。

 齊藤さんはそう振り返る。映像の悲惨さはご覧のとおりだが、一つの事実がある。
 岩手県大船渡市では、死者339人、行方不明者87人の尊い人命が犠牲になった(2012年1月31日現在。総務省・警察庁調べ)。だが、さいとう製菓の人的被害はゼロだった。

従業員が避難したから、再建もできた

 その理由を証明するものが、震災発生直後に撮られた映像にある。
 これも賢治専務による撮影で、撮影場所はさいとう製菓の社内――。激しい揺れが続き、次々に社内備品が落下するのが見え、収まりつつある段階で、声が交わされる。
 齊藤専務 「よし逃げろ、津波来るよ」
 女性社員 「津波来ますよね」
 齊藤専務 「来る、逃げなさい。はい電気とめて、避難!」
      (外にいた別の社員に)「津波来るから逃げなさい。早く逃げて、逃げて!」

 その時の映像がこちらだ。すぐ横の川では、魚が不気味に飛び跳ねている。
 http://www.youtube.com/watch?v=0VTGY4KKpFA&feature=player_embedded

 あえて、震災と津波の順番を逆にして紹介したが、この時の迅速な避難があったからこそ、本社にいたさいとう製菓の従業員は全員高台にいた。その後、賢治専務は、当日夜に戻った齊藤社長に、2人(後日無事が判明)を除く人数の無事を報告している。
 生産や販売、物流や商品開発などの各業務に精通する従業員が“無事だったからこそ”、被災から40日後の2011年4月20日に本格生産を再開。翌21日に岩手県内6店舗で販売再開といったように、早期に事業活動を軌道に乗せることができたのだ。

 当日は本社にいなかった社長の齊藤さんは、こう説明する。
 「以前から社内には『大きな地震の後は、津波が来るからすぐ逃げなさい』と話し、津波に対する避難を全社的に徹底していました。あの日もたまたま午前中に、専務が震災時の避難指示をしていた。だから一斉に高台に避難して、人的被害を免れたのです」


高台にある主力の中井工場は津波の被害を免れ、早期の生産再開につなげることができた。


齊藤社長は、危機回避行動を体に覚え込ませておくことが重要と語る

 2005年頃から国内のビジネス現場ではBCP(Business Continuity Plan=事業継続計画)の重要性が言われ始め、これまで危機管理や具体的な計画を策定してきた会社も多い。しかし机上の空論がいかにもろいかを、私たちは東日本大震災から学んだ。
 少し前に取材したリスクコンサルタントも「BCPというハードは整備されていたが、社員一人ひとりの意識というソフトに温度差があった」と自戒を込めて語っていたほど。
 さいとう製菓のリスク意識が高かった理由。それは半世紀前の齊藤さんの経験による。

チリ地震で学んだ、企業の在り方

 1960年、高校を卒業した18歳の齊藤青年は、盛岡市の警察学校にいた。
 「この仕事を継ぐ気がなく、警察官になるために盛岡で寮生活をしていました。不思議なことに(チリ地震の余波で三陸海岸に津波が押し寄せる)前夜、夢を見たんですよ。自宅に帰って家族から『オマエなんか知らないよ』と冷たくあしらわれる夢をね(苦笑)。それで目が覚めたら、日直当番の人が『大船渡が津波で壊滅した』と」

 大急ぎにバスで盛岡から大船渡に向かう。
「車中は大船渡に帰る人ばかりだから、被害状況がわかるにつれて、みんな泣いてね。そのバスも途中で道路が通れなくなりストップ。そこからは歩いて帰りました」
 がれきの上に片足を乗せたらストンと落ち、ひざまで泥水につかった、と話す齊藤さんは、地球の反対側にある南米・チリで起きた地震によってもたらされた津波被害の恐ろしさを学んだ。
 この津波で家業の店もほぼ全壊。齊藤さんは警察学校を辞め、店を継ぐことを決意する。

 「齊藤家のピンチでした。当時の父は行政連絡員をしていて、家業にあまりかかわっていなかったから、長男の私がやるしかなかったのです」
 この時期、もう一つの記憶がある。同業者からの差し入れだ。
 「みんなで復興作業に取り組む中、竹屋さんという製パン店の2代目がサンドイッチをくれたんです。そのバターピーナッツ味のサンドイッチが、今でも忘れられないですね」


チリ地震の津波がきっかけで齊藤社長の人生は変わった

 「困った時はお互いさま」で、「かもめの玉子」を無償で配り続けた行動も、今にして思えば、こうした体験が下地となったのかもしれない。

津波後に復活した「かもめの玉子」

 さいとう製菓の、看板商品である「かもめの玉子」(1999年までの商品名は「鴎の玉子」)を最初に発売したのは、60年前の1952年のこと。齊藤さんの父・俊雄さんが、大船渡の観光土産になる菓子作りを思い立ち、三陸海岸を舞うかもめの姿からヒントを得たものだ。
 最初の商品は上半分のみ卵型だったが、チリ地震の直後に入社した齊藤さんは、販売を休止していた「鴎の玉子」(当時)を復活し、父や弟とともに完全な卵型にしようと改良に取り組む。玉子の殻に見えるよう、ホワイトチョコレートで包んだのは1964年だという。
 その後もホワイトチョコを自動でかける機械を考案するなど、商品の改良を続け、販路の開拓やネーミングの工夫など販促面にも力を入れ、人気商品に育て上げた。

 そして前回紹介した、東日本大震災による津波からの復活――。
 現在では厳しい衛生管理が徹底された工場で、1分間に200個以上の生産ができる自動化システムも復活し、安定稼働を続けている。
 販売面でも好調だ。最近の首都圏では、震災以前より「かもめの玉子」が身近になった。多くの売り場で商品を目にする機会も多い。会社の認知度も各方面で高まっている。
 2度も流されながら“生還”を果たした看板と同様、津波を乗り越えながら進化する。

大船渡は必ず立ち直る

 チリ地震と東日本大震災までの51年の歳月は、さいとう製菓の存在を大きく変えた。「町の和菓子屋」だったのが、三陸地方を代表する製菓メーカーとなった。
 齊藤さんの立場も大きく変わった。高校を卒業したばかりの青年が、製菓メーカーを率いるベテラン社長となり、大船渡商工会議所会頭という地域の重責も担う。
 「被災した零細企業のために、商工会では緊急融資といったおカネの相談にも対応し続けました。職員たちは優秀で、地域再生に向けて一生懸命に取り組んでいます。
 会頭としての私の立場では、日本商工会議所や東北六県の連合体とも連携して、国に再建を働き掛けています。与野党の政治家は、党利党略を乗り越えて活動していただきたい」


齊藤社長は、大船渡商工会議所会頭として地域の復興に率先して取り組んでいる

 「今回の大震災からは多くの教訓を得ました。まずBCPの部分では、被災した際に自宅に帰してはダメ。そして気象庁など専門機関には、津波に対する的確な情報を出してほしい。津波の程度がわからないから、海を見に行って巻き込まれてしまうからです」
 平時から避難を徹底していても、避難場所を誤ったケースもある。以前取材した石巻の会社では、震災後、海に近い自宅に立ち寄ってしまい犠牲になった社員がいた。
 「時の風化」も怖い。チリ地震を知る齊藤さんは、前回も被災直後は避難訓練を熱心にやったが、年々記憶が薄れ、最近の訓練は形式的なものに終わっていた、と警鐘を鳴らす。

 一方で地域を盛り上げる催しも行う。昨年の10月15日と16日。さいとう製菓の中井工場では「かもめの玉子 工場まつり」が開催された。洋菓子バイキングや屋台村、手作りケーキ教室などのイベントが来場客に喜ばれ、土日の2日間で4700人が訪れたという。
 「8年前から行うイベントですが、当時は社内でも(今回も)やろうという声と、やらないという声があったが、私は絶対にやるつもりでした。震災後、小学校や公園に避難所や仮設住宅が設置され、子供さんが遊ぶ場所がなくなったからです。次代を担う子供たちに笑顔になってもらわないと」

 実は震災前、古希を控えた齊藤さんは近々引退するつもりでいた。それがこの惨事を受けて心境が変わった。自らを奮い立たせるように「引退も先延ばしだ」と語る。
 できることから取り組みながら、復興への歩みを続ける企業と地域。「時間はかかるが大船渡は必ず立ち直る」と話す齊藤さんに、しばらくのんびりするヒマはなさそうだ。

 あの大惨事がウソのように、晴れた日には海がきらきらと輝く、三陸の大船渡――。
 夏には観光客も繰り出し、秋になればさいとう製菓の「工場まつり」で入場した子供たちの歓声が聞こえることだろう。
 飛び続けるかもめも、それを見つめているはずだ。


しっとりとまろやかな黄味あんを、カステラ生地とホワイトチョコで包んだ「かもめの玉子」。ヨーロッパで最高の権威を誇る国際食品コンクールで『モンドセレクション』3年連続金賞を受賞

 

■Company Profile
さいとう製菓株式会社
・創業/1933(昭和8)年
・代表取締役社長 齊藤俊明
・仮本社/岩手県大船渡市大船渡町字富沢41-12
・TEL 0192-26-2222(代)/フリーダイヤル 0120-311005
・事業内容/和菓子・洋菓子の製造販売
・代表商品/「かもめの玉子」
・従業員数/220人(グループ計。2012年3月31日現在)
・企業サイト http://www.saitoseika.co.jp/

◆高井尚之(たかい・なおゆき)
ジャーナリスト。1962年生まれ。日本実業出版社、花王・情報作成部を経て2004年に独立。「企業と生活者との交流」「ビジネス現場とヒト」をテーマに、企画、取材・執筆、コンサルティングを行う。著書に『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『花王の「日々工夫する」仕事術』(日本実業出版社)、近著に『「解」は己の中にあり 「ブラザー小池利和」の経営哲学60』(講談社)がある。