国際医療協力局 医師 和田 耕治
はじめに
最終回の今回は、感染症の中でも、エボラウイルス感染症、中東呼吸器症候群(MERS)、ジカウイルス感染症、黄熱病、重症急性呼吸器症候群(SARS)、新型インフルエンザといったちょっと怖そうな「感染症」のリスクを企業はどのように考え、対策を行うべきかを取り上げる。
皆さんはこうした聞き慣れない感染症についてどのように感じられているだろうか。すごく怖いと思う人もおられるだろうが、無関心という人のほうがむしろ多いだろう。感染症をテーマとした映画やドキュメンタリーは、かつてのダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』から、最近は『感染列島』『ナショナルジオグラフィック 地球最後の日を生きる 新型ウイルスの恐怖』までさまざまある。中にはある病原体に感染すると、人間がなんと「ゾンビ」になってさらに他の人を襲うようになり、襲われた人がまた「ゾンビ」になったりと、現実にはあり得ない設定のバラエティ的な感染症をテーマにした映画もあるようだ。こういうものを真に受けてはいけない。
また、テロの可能性としても感染症が取り上げられる。エボラウイルス感染症やジカウイルス感染症の患者の血液に曝露されると(つまり、もし体内に注射されると)感染するリスクがある。そうした患者の血清がインターネット上で売られているらしいといううわさもあるようだ。かつて、米国で9.11同時多発テロの後に白い粉を郵便で送り、炭疽(たんそ)菌をばらまくテロがあった。日本でも1993年に、当時のオウム真理教が亀戸で炭疽菌を散布しようとしたテロ未遂事件があった。しかし、テロ事件研究の専門家に言わせると、首謀者にとって確実性の低いバイオテロが今後企てられる可能性は低いのではないかとの意見もあるようだ。
企業は、感染症について頭の体操はしておきたい
冷静に考えると、企業として「感染症」を恐れすぎる必要はない。しかし、万一の備えとして、国内や海外出張先でこうした感染症が流行したらどうするか、といった想定のための"頭の体操"をしておく必要はある。そのため、感染症についても地震などのリスクと同様に「事業継続計画」を作成しておくことも一法である(新型インフルエンザに関しては以前から作成することが求められているが)。
もちろん、その場合に最も難しいのは被害想定をどうするかということである。新型インフルエンザの検討においては、被害想定の例として「流行のピークの8週間はほとんど外に出られず、サプライチェーンが止まり、電気や水道などのインフラまで止まってしまう」といった最悪の状況まで想定していた企業もあるようだ。そんな難しいことを考える前に、毎年冬にノロウイルスやインフルエンザの流行によって数人休んだだけで職場が混乱したり、休めなくて熱があっても職場に来なければならない状況から解決していくべきである。平時にできないことは有事にもできない。
リスクのとらえ方と意思決定
ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者であるダニエル・カーネマンの有名な言葉に「人々は小さなリスクは大きくとらえ、大きなリスクは小さくとらえる」というものがある。実際には新型インフルエンザよりも、タバコを吸っている人にとってはタバコによる健康影響のほうが大きい。なので、ことさらに新型インフルエンザを恐れるのは合理的ではない。
2015年5月に、韓国ソウルの病院でMERSのアウトブレイクがあり、多くの患者が出た。私はちょうどそのときに学会でソウルにいた。院内感染による流行であり、「病院の外で感染するリスクは小さい」というのは頭で理解していても、私は街中や学会場に行くのは不安であった。不安の背景には、感染するかどうかだけではなく、もし韓国からの帰国直後に日本で発熱した場合、MERS感染の可能性が疑われ、働いている病院や世の中に迷惑をかけるかもしれないという社会的な事情もある。実際、この時期には韓国への外国人訪問者が激減し、韓国内の消費心理も2009年のグローバル金融危機と同程度まで低下した。
仮にそうした状況が再び生じた場合、ソウル市内の状況に詳しい人がさほど多くない企業では、「〇〇の病院で感染が確認された」と具体的な地名が出ても、それがどの辺りで、自社の社員にどのような影響がありそうかをすぐに把握することはできないだろう。そのため、「ソウルへの出張を禁止する」とか「ソウルの出張者を全員帰国させる」などの可否について、間を置かずに議論をすることは非常に難しいと思われる。
リスクはゼロにはならないが、小さくしようとすればするほど費用がかかったり、大きな動きが必要になる。また、リスクにはさまざまな要素があり、上記のような場合は社員が感染するリスクに加えて、万が一の事態が起きたときにはメディアやネット上などで自社への痛烈な批判が巻き起こることまで考慮しなければならない。最後はだれかが意思決定をしなければならないが、情報もやや曖昧であったり、不足している中で判断しなければならないという悪条件が重なる。
そこで以下では、こうした事態への対応に備えて、企業が行っておきたいことを紹介する。
感染症に備えて企業が行っておきたいこと
[1]同業種とのネットワークづくり
従業員、管理者、そして役員や経営者などほとんどすべての人は感染症の専門家ではない。そのため、バランスよくリスク認知と意思決定を行うことは難しい。
一方で、同業他社がどう動くのか、といったことに役員や経営者は大きく影響されることも多いようである。そのため、もしこうした感染症の危機が起きた場合には、まず同業他社の担当者と連絡を取り合うとよい。逆にいうと、こうした連絡が取れるような顔の見える関係づくりを平時に進めておきたい。
新型インフルエンザ対策が話題となった時期、私のところには、役員や経営者の"暴走"を止めるのにどうすればよいかという相談が何件かあった。国内のある銀行の担当者からは「役員がゴルフに行った際に、他行で空気清浄機を大量に購入すると聞いてきたようで、『うちでもやれ』という話になっています」という相談があった。空気清浄機は、銀行のような場所でのホコリ除去や花粉対策としては効果がある。しかし、感染予防策として設置する意義はあまりないと筆者は考えている(診療所や病院など患者がいる場所では、追加の対策として空気清浄機を置くという選択肢もあるが、むしろ空気が拡散される可能性もある。そもそも窓を開けるほうがよいかもしれない)。空気清浄機に過度な期待をすることで、手洗いなど他の対策がおろそかになることのほうが困る。
担当者は、役員のメンツを保ちつつ、いかに企業として意思決定をするかについてだいぶ悩んでおられた。こうしたことに対応するためにも同業者のネットワーク、そして専門家との連携が大事である。専門家として、企業には産業医がいるのでまず相談するとよい。言うまでもなく、すべての産業医が感染症について詳しいわけではないので、こちらも平時から対話をして、必要があればより詳しい専門家を紹介してもらうことも大事である。
[2]有事の際に正しい情報を得ること、その備えとして必要な事柄を把握しておくこと
有事の際にはさまざまな情報が流れる。中には正しいものもあれば、不安や関心をあおるだけのものもある。メディアでも、ここぞとばかりに視聴率を追い求めているのではないか、と思うような報道もある。こうした中で、われわれは冷静に情報を集めなければならない。
感染症のリスクが最も高いのはだれかというと、医療従事者である。企業では、医療従事者が必要とするような対策までは基本的に不要である。特に防護服などは、企業の人が使う場もほとんどないし、正しく使うためにはそれ相応の訓練が必要となる。
かつて、MERSやSARSが流行した際にも、高機能のマスク(防じんマスクDS2やN95マスク)を企業などが大量に購入したため、医療機関が入手できなくなるといった事態が起きた。確かに買っておかないと、だれかに「なぜ買っておかなかったのか」と責められる可能性もある。こうしたことも含めて、平時のうちに必要な対応を議論して記録に残しておくことが重要であろう。
一般的に、死亡率の高い病気が、街中や企業内で大規模に広まる可能性は低い。むしろ死亡率が高い病気の場合、患者は具合が悪いので外は歩き回らず病院に集まる。エボラウイルス感染症のような病気も、日本では街中で広がるような病気ではない。一方、インフルエンザのように、軽症の人、それよりも具合の悪い人、中には重症になる人が出るような症状に幅のある病気は、軽症の人が職場や街中に出るために感染が広がる。
そうした点を踏まえ、感染症の情報について把握しておきたい項目として次のような点が挙げられる。
【感染症の情報について把握しておきたい項目】
①どこに感染者がいるのか?
例:どこの国で、国のどこで(首都か? 地方都市か?)、どういう場で(病院? 地域?)
②だれが感染しているのか?
例:医療従事者、地域の人々(大人? 子ども?)
③感染経路とその予防策は?
例:飛沫(ひまつ)感染、空気感染、接触感染、蚊による感染
④治療薬やワクチンはあるのか?
例:治療によって治るのか? どの程度の人が重症になるのか?
[3]普段からの感染対策を徹底する
普段から手洗いの励行や、咳エチケット(咳をしている人はマスクをして飛沫を飛ばさない)を企業においても励行する。また具合が悪くて熱が出たり、下痢をしている場合には休めるような配慮をする。こうした普段からの感染対策を怠ると、有事の際にも対応ができない。
特に手洗いは、安価で効果の高い対策である。満員電車から降りた後、会社に着いてすぐ、ご飯を食べる前などはぜひ手洗いをこまめに行いたい。
おわりに
本連載は今回で最終回となる。連載のきっかけは、産業医として、そしてそれなりに海外に行っていた経験から、海外生活での対策を分かっていたはずなのに、自分自身がいざ住んでみるとさまざまなトラブルに巻き込まれたことである。最近、筆者はアフリカにも行く機会に恵まれている。こちらは出張ベースなので、住んでみたわけではない。しかし、出張でさえも、現地の治安、マラリア対策、黄熱対策などさまざまなことを考慮しなければならない。これが、実際にアフリカに住むとなるとさらに大変であろう。今、アフリカには多くの中国人が向かっている。飛行機には赤ちゃんを連れたお母さんも少なくない。
日本からもアフリカに進出する企業も増えてきている。国際的な競争が増す中で、まずは健康を守るということが基本である。アフリカでの生活についても、また機会があれば取り上げたい。
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和田 耕治 わだ こうじ 国立国際医療研究センター 国際医療協力局 2000年産業医科大学医学部卒業、臨床研修医、専属産業医を経て、カナダ国マギル大学産業保健学修士課程修了、ポストドクトラルフェロー。2007年北里大学医学部衛生学公衆衛生学助教、その後講師、准教授を経て、2012年より国立国際医療研究センター国際医療協力局に勤務。ミャンマーにおける感染症対策ならびにベトナムを中心とした医療機関の質改善重点事業に従事。 |