2012年10月17日掲載

『日本人事』特別企画 「私の視点―これからの日本・ヒト・人事」 - 第3回 江口匡太


働く人の優位性と権利

江口 匡太 えぐち きょうた
筑波大学社会工学域 准教授

1968年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。著書に、『キャリア・リスクの経済学』(生産性出版、2010年)、『解雇規制の法と経済』(共著、日本評論社、2008年)、『社会工学が面白い』(共著、開成出版、2008年)、『解雇法制を考える』(共著、勁草書房、2002年)など。


 日本企業は人の能力を引き出すことに力を注いでいるといわれる。広い範囲の技能形成を促進し、何かトラブルがあれば自分の直接の仕事ではなくても一生懸命に努力し、周囲と協力して解決しようとする。いいものを作るために、お客さんに喜んでもらうために、仕事に生きがいとやりがいを求めている。実際、『日本人事』で紹介されているストーリーはそうしたものに満ちている。一方で、本当に人を大事にしているのだろうか、という思いもある。そうしたやや複雑な思いについて、本欄を借りて書いてみたい。

1.見える仕事と見えにくい仕事

 仕事には成果が見えやすいものと見えにくいものとがある。製造業であれば出荷数や生産量は見えやすい指標であり、品質は見えにくい指標となる。組み立てられたパソコンの形状はきれいだが、すぐにフリーズしたり、熱くなったりといった品質は顧客の前で明らかになる。欠陥かどうかきちんと立証できるわけでもなく、欠陥品をつかまされた顧客は不満ばかりがたまってしまう。不満を持った顧客のほとんどは黙って他社の製品やサービスを買うようになるから、企業としては気づいたときにはすでに遅く、事態が悪化するまで問題に気づかない。
 顧客からクレームが来れば問題が顕在化するのだが、クレームの対応は気持ちのいい仕事ではないから、どうしても心の回路を切ってしまいがちだ。口には出さないまでも「あー、またうるさい客のクレームか」となるのは仕方がない。しかし、そんな対応ではクレームに潜む問題の芽を見失いがちになってしまう。
 製品やサービスのクオリティを維持して問題の発生を極力小さくし、顧客のクレームに的確に対応させるのは簡単なことではない。こうした見えにくい仕事に取り組んでもらうには、従業員の会社へのロイヤリティを高めることが大切だ。どうやって愛社精神を持たせるかは悩ましい問題だが、長期的な視点で雇用を継続し、会社の利益が増えればボーナスのような形で還元すれば、ロイヤリティを持たせやすい。
 長く働いてくれるなら、会社が技能形成を進めようとする。人を大事にする会社だから、見えにくい細部にまで労働者への注意が行き届き、それが顧客に評価され会社の利益につながる。会社の利益が長期的には働く者に還元されるので、ロイヤリティも高まり好循環になる。こうした見えにくい仕事を評価する人事制度の構築や評価の実施は、上から目線ではうまくいかない。組織の上位からは見えにくい仕事をしてもらいたいなら、現場の働く人が公正であると納得するような仕組みを作る必要があり、労使の話し合いが重要になってくるからである。
 これは日本にだけ当てはまるものではなく、広くどの企業にも当てはまるものだが、とりわけ日本の企業で長期の雇用と労使の信頼関係が見受けられたといわれてきた。

2.曖昧な仕事の領域が問題なのか?

 だが、こうした日本的な雇用について批判的な見方がいつまでたっても消えないのはなぜか。これは何も最近のことではなく、何十年も前から言われていたことだ。よく言われるのは、仕事の領域が曖昧で長時間労働を強いられ、ワーク・ライフ・バランスが進まないことである。見えにくい仕事の評価は当然ながら評価する側の主観に左右されやすい。評価を落としたくないから上司の付き合いは断れない。「この忙しいときに有休をとるとは信じられない」とか、「納期が迫っているのに定時で帰るとはけしからん」という話をどれだけ耳にすることだろう。これでは子どものお迎えはままならないから、女性の社会進出は進まないし、出生率も低くなるし、結婚も遅くなる。大黒柱となる男性だって逃げられないからしんどい。実際、仕事の範囲が曖昧なために過度な長時間労働がもたらされるという意見がある。もしそうなら、その範囲を明確にすることで、少なくとも労働時間の問題は解決するはずだ。この意見に何らかの説得力を感じる人は、日ごろ働きにくさを感じているからだろう。
 では、職務給制度にしたら問題は解決するのか? 筆者は必ずしもそうは思わない。仕事の範囲を明確に前もって定めておき、代替できるなら、人をわざわざ雇う必要性は小さくなるからだ。そのような仕事は丸ごとアウトソーシングできるだろう。実際、IT化とグローバル化の流れの中で、これまで正規の労働者が行ってきた仕事の多くがアウトソーシングされたり、非正規雇用で代用できるようになってきた。
 例を挙げれば、経理代行サービスやカスタマーサービスは、海外の労働者がネット回線でつながって仕事をしていることは珍しくない。アップルが自社工場を持っていないのは広く知られているが、製造業でもEMS(Electronics Manufacturing Service)と呼ばれる電子機器の受託生産サービスが積極的に利用されるようになった。物流でも処理手順を明確にできるなら運送業者を使えばよく、自社でロジスティクスを持つ必要性はない。IT化の流れの中では、前もって明確にできる定型的な仕事のウェイトが低下し、日本の労働者の優位性がなくなりつつある。熟練、匠の技といった要素は(これまでの報酬を前提とするなら)ますます重要性を保てなくなってしまう。
 職務給制度が非効率的だと言いたいのではない。人間の優位性は前もって明確にできないような事態にどれだけ柔軟かつ的確に予測、対応できるかにあることを強調したいのだ。もし、職務の範囲を明確にすることにばかり注視するなら、たとえ職務給制度を導入しても、人間の持つ優位性を失い、ITに振り回される労働者が生まれるだけだろう。だからこそ、職務の範囲をできるだけ広く位置づけたり、報酬の支払い方も幅を設けて対応することによって、見えにくいところにきちんとインセンティブを与える柔軟なシステムが職務給制度でも必要とされるし、そうした事例が報告されている。結局、わが国で観察されることと同じように、見えにくい仕事に動機を持たせる工夫が職務給制度でも必要とされることに変わりはない。

3.本当に人を大事にしているのか?

 それでは、なにゆえ日本の働き方に窮屈さを感じるのだろうか。端的に言えば、この国は人にお金が付かないことに原因があるのではないか。何でもできる無理のきく人がいるから、そうした人に甘えて過度な負担をかけているのではないだろうか。言い方は悪いが、タダだから長く働かせてもいいということになっているように見えるのである。こうした働き方では、仮に職務給制度を導入しても、なんでもかんでも自分の仕事だと「明確」にされてしまい、結局長時間労働になって今以上に苦しくなるのではないか。これまでは無理に仕事を頼まれたときに、「すまないが、やってくれ」という言葉を上司からかけてもらえたかもしれないが、「君の仕事だからやるのが当然だ」という態度をとられてしまうのではないだろうか。
 話は変わるが、東日本大震災の際に飲料水が不足したのは記憶に新しい。関東以北に住んでいた人にとっては、原発事故もあり、場合によっては家に閉じ込められる危険性があったから、水を確保したいというのは止められない。水は絶対に使うものだし保存もきくから、価格が同じなら買いだめは合理的な行動だった。そのため、品不足になり、もっと困っている人に水が行きわたらなくなった。
 メーカーも流通業者も労働者も懸命に対応した。その無理した費用を価格に計上すれば、普段は150円のものを200円にすれば、買いだめは抑制されるし、それでも水が必要な人のところに届いただろう。日本人の持つ勤労の美徳のおかげで無理に増産したという側面がある。
 もちろん、震災は非常時だから単純に経済合理性だけで語れるわけではない。だが、普段働いている人が無理をするのは、ある意味でいつもと違う“非常時”が大なり小なり起こるからである。不確実性に対応できるのが人間の優位性だが、長く無理を続ければつぶれてしまう。産休や育休はもとより、働く者がしっかりと権利を行使できる体制が求められており、何も新しい人事制度を構築すれば解決することではない。
 今後の人事管理においては、日本の特徴と言われた人間の優位性を活かすという視点を維持しながら、働く者がきちんと権利を行使できる体制の整備が必要である。法制度、社会制度の整備は必要だが、現状がなかなか改善されない場合は過度の労働規制が導入される可能性もあるだろう。もし、人事担当者が円滑な企業活動のために過度の規制を避けたいと考えるのであれば、従業員が法で認められた権利の行使をむしろ促すような体制を整える必要があるのではないだろうか。