2012年09月26日掲載

トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - “リーマン”で消えた受注。「発想の転換」で克服した──西島株式会社 代表取締役社長 西島篤師さん(下)

 


 

   
撮影=上野英和

西島篤師 にしじま とくし
西島株式会社 代表取締役社長
1951年愛知県生まれ。専修大学経済学部卒業後、豊橋工倶西島鐵工所(当時)に入社。75年にドイツに社費留学し、マンハイム大学経済学部、カールスルーエ工科大学で学び80年に帰国。総務課長を経て、95年に代表。98年に法人化して現社名に変更、社長に就任。技術を武器に業績を拡大させた一方で、2度にわたる工作機械不況を克服。「生産は豊橋、市場は世界」を掲げて、海外企業と積極的に取引を行う。

定年制がなく、社歴50年を超えたベテランと若手が一緒に働く。
「自社一貫製作」と、1人が複数業務をこなす「多能工」が強み。
景気に左右されやすい工作機械を、事業の幅を広げて進化させる。

取材構成・文=高井尚之(◆プロフィール

 「あのとき、私は1人のリストラもしなかったよ。ワークシェアリングで乗り切ったんだ」
 工作機械メーカー・西島の社長、西島篤師(とくし)さんは、こう話す。
 前回紹介した社長就任直後(1995年)の自動車不況から13年、再び愛知県豊橋市の工作機械メーカーを巨大な試練が襲った。

受注していた8割が消えた

 2008年9月15日に起きた「リーマンショック」――。周知のとおり、米国のリーマンブラザース破たんに端を発した世界同時不況だ。これが同社の業績を容赦なく飲み込んだ。
 「注文の7割、8割が消えたんだ」
 1~2割レベルの話ではない。すでに受注していた機械の注文キャンセルが相次いだ。

 もともと相手先企業の生産現場で使う工作機械は、景気に左右されやすい。業績好調な時期は、企業は受注増に対応したり、生産効率を高めるために工場設備に投資する。一方、自社の先行きが不透明になると一気に手控える。これをまともに受けた。

 西島さんは全社員を呼んで、こう伝えた。
 「厳しい状況となっているが、私は会社を守るし、みなさんの雇用も守ります」
 もちろんきれいごとだけではない。売り上げが減れば当然、入ってくるカネが減る。「業績が回復するまで、給料をカットさせてもらいます」とも宣言した。少なくなった仕事を分担する一方で、空き時間を使い、新たな取り組みを命じた。

 製造現場は「機械の点検と新技術の開発」、そして営業には「3倍動け」と指示を出す。
 「相手先の社員は、経費節減で出張しなくなったので社内にいる。直接会いに出掛けなさい。必要なら私を利用しなさい」と命じた。

 社員も、それに向けて活動を始めた。西島さんはこう続ける。
 「『100年に一度の大不況』と騒いでいたけど、戦争に負けて東京も名古屋も豊橋も焼け野原となり、食べ物すらなかった時代に比べると、大したことはない。もちろん8割の受注が消えたのは大打撃で、放っておけば会社は倒産します。でも、これは大きな変化、歴史的転換期だと受け止めました」


●円高不況、リーマンショックと2度にわたる工作機械不況を経験。その都度社員のスキルアップとチームワーク、意識改革で克服し、次の飛躍につなげてきた

 当時「(1)新市場、(2)新分野、(3)新技術の三つのキーワードで動きなさい」とも命じた。
 「生産を大幅減産したりストップしたりした企業に営業しても仕方がない。それよりも、仕事がある企業から受注してくる。具体的には、(1)は中国を含めた新興国、(2)は環境、エネルギーといった分野で、(3)はこれまでとは違う技術の開発。新規受注の工作機械製造に向けて、これまで培った経験を生かし、新たな技術に挑む──という意味です」
 こうして営業と製造が連携を取り、“製販一体”となって活動した。

発想の転換で業績を回復

 同社の反転策は、翌年になって「吉」と出る。
 やがて新規の取引先から、引き合いや注文が入り始めた。日本ではなく海外が多かった。こう記すと簡単に聞こえるが、突然ゼロから始めたのではない。リーマンショック以前から、未来の取引先に向けて種をまいていた。工作機械の展示会にも出展し、新製品を紹介していた。
 もともと海外との取引には実績がある。例えば、イタリアのシーメック社、米国のパット・ムーニー社、韓国のウーヤン社といった各社とは長年取り引きしており、ドイツのプロフィロール社とは社長同士の個人的な親交も厚かった。

 ただし、今回はインドや中国、インドネシア、マレーシアの企業からの注文だった。リーマンショックで先進国需要が冷え込む中、新たに工場を稼働して、生産現場の工作機械を求めたのは新興国だったのだ。従来の発想では、こうした取引先は開拓できなかった。
 15年前に、西島が開発した工作機械とまったく同じものをコピーした、台湾のメーカーからも注文が入ったという。

 西島の工作機械には専用機と汎用(はんよう)機があるが、相手先の現場によって仕様が異なる専用機は「相(あい)見積もり」が当たり前の世界だ。条件に応じて見積もりを出し、先方が各社製品の「価格と価値」を比較検討する。受注後は細かい部分を修正することも多いので、応用力が不可欠だ。1人の技術者が電気設計や機械設計、組み立てといった技術をこなす西島独自の「多能工」制度は、こうした新規受注にも対応できた。
 一方の汎用機でも新製品を開発した。前回紹介した新型丸鋸(まるのこ)切断機「プラスワン」は、この時期に開発された製品の一つだ。

 外に向けて営業が攻める一方、内に向けて製造も動いた。「3カ月終了プログラム」と名づけて社内設備の改善、見直しを行い、作業プロセスの自動化、省エネ化を進めたのだ。
 「カイゼン」は生産現場の合言葉だが、忙しい時期には、気づいていても目先の納期に追われて、じっくり取り組めないもの。同プログラム終了後は数億円の投資効果となった。
 こうして“待っていても仕事は来ない”を実践して動き、V字回復に成功した。「リストラをしなかったので、雇用調整助成金は1円ももらっていない」と胸を張る。

 西島さんはこう続ける。
 「“不況はモノが売れない”というのではなく、みんなに与えられた条件です。『今までのやり方ではダメ。発想の転換や仕事の見直しをしなさい』と言われたようなもの。意識改革が求められます」

 自動車業界向け工作機械から農業用自動工作機(全自動選花結束機「花ロボ」)へ進出した、1995年の不況。
 そして、国内受注中心から新興国向けへと舵(かじ)を切った、2008年の不況。
 いずれも不況を契機に、発想の転換や仕事の見直しをして、新規受注で乗り切った。従来の取引がすべて消えたのではなく、新たな取引先が上乗せされて事業の幅も広がり、会社も社員も自信を深めた。

社長も社内では作業服姿

 服装でも「現場主義」を貫く西島さんは、社内ではいつも作業服姿だ。クールビズをしている夏は、ポロシャツ姿。作業服もポロシャツも、胸には「NISHIJIMAX」のロゴが誇らしげに付いている。
 テレビ経済番組「カンブリア宮殿」(テレビ東京系、2011年4月14日放映)に出演した際も、作業服に帽子姿という“正装”で登場したほどだ。
 「モノづくりをする会社の社長がスーツ姿では、会社がダメになるよ」と笑う。


●毎日欠かさず各職場・現場を回り、全員に声を掛ける。「たまに赴いて、一言二言話し掛けて、本人たちはどう感じますか。毎日のコミュニケーションだから意味があるのです」

 140人規模の工作機械メーカーが競争力を高め続けるには、社員のスキルアップとチームワークが欠かせない。ベテラン技術者だけでなく、西島さんも現場を回り対応する。
 「作業の状況があるので、タイミングを見て声を掛けています。返事や表情を見れば『困っているな』とか、『これなら大丈夫だ』というのも分かります。若き日の私もそうでしたが、『おい、頼むぞ』と任せてもらえれば、うれしいじゃないですか。常日頃からコミュニケーションを取り、私の考えを伝えています」

 「社長は24時間、幹部は18時間、社員は8時間働くこと」がモットーの西島さんが、早朝出勤して夜勤明けの社員の朝食を作るのも、部下とのコミュニケーションの一環だ。食べながら会話すれば、夜中に何か問題が起きていないかの情報もつかめる。部下からすれば「社長が気に掛けてくれている」という思いを抱くだろう。

 70代のベテラン社員にばかり注目が集まるが、実は同社の平均年齢は約40歳と、平均的な製造業並みだ。興味深いのは、リーマンショック直後も新卒者を採用していたこと。
 新卒採用は、学校側の推薦に頼っている。先生たちも同社がどんな会社かを知っているので、“これは”という学生を推薦してくるという。こうして毎年7~8人を採用している。

 「面接もして、どんな人かの確認はしますが、短時間でその人のことを隅々までは分かりません。その点、学校の先生は何年にもわたって生徒一人ひとりを見ているので、先生方の推薦を信頼しています。それで真面目な社員が採用できています」

永年勤続表彰は夫婦で“受賞”

 2007年、西島は「勤続50年表彰制度」を創設した。一般社員がここまで同じ会社で働くケースは少なく、全国的にも珍しい。対象者は、すでに勤続50年を超えていた平尾隆義さん(78歳、勤続62年)、兵藤勝哉さん(78歳、勤続61年)と、この年に勤続50年となった戸澤秀夫さん(71歳、勤続55年)の3人だ(前回参照)。


●「きさげ」加工に当たる戸澤さん。板面全体に、微小なくぼみを均一に施していく。滑らかな凹凸は長年にわたる修練の賜物であり、機械加工では絶対にできない芸当だ

 仕事納めの2007年12月26日に表彰し、表彰状と純金の記念メダル、旅行券を贈り、リフレッシュ休暇が与えられた。表彰式には夫婦で参加、奥さんにはブローチが贈呈された。
 “夫が健康で働き続けられるのも、妻の支えがあってこそ”との思いからだ。「私の一番の味方は、社員の奥さんですよ」と話す西島さんは、社員全員の妻の名前と人柄を把握している。

 ちなみにリフレッシュ休暇は3日間。勤続30年の「1週間」に比べると少ないが・・・。
 「私が『リフレッシュ休暇を2週間あげるから、奥さんとゆっくり旅行してきなさい』と言ったら、3人の奥さんから猛反対された。『そんなにいらない! 頼むから3日にしてください』と。それで3日にしたのです(笑)」
 休暇中は「必ず夫婦で旅行して、現地で一緒に撮った写真を1枚提出すること」も条件だった。3夫婦はそれぞれ、温泉旅行に出掛けたという。
 西島では、社内イベントの多くは家族で参加する。これもまた長年続くやり方だ。

 「1995年に代表となって最初にやったことが、勤続30年表彰の創設です。当時で対象者は36人いました。同じようにリフレッシュ休暇と報奨金(20万円)を贈呈したのです。
 実は、その人たちが若手社員だった66年、当社は不渡りを出しました。月の売上高が700万円だった時代に、2億8000万円もの負債を抱えたのです。8年後の74年に完済しましたが、苦しい時代を頑張って、会社を支えてきた人たちに報いたかった」

 昨年に勤続60年を超えた平尾さんと兵藤さんは、豊橋市長と豊橋商工会議所会頭から特別表彰を受けた。今度はダイヤモンドでも贈ろうか、と話した西島さんに、2人はこう答えた。「いや社長、この表彰自体が僕にとってのダイヤモンドです」


●勤続年数最長(62年)の平尾さん。同社の「技術革新と伝承」を担う、現場のフロントランナーである

退職金はなし、生涯現役で稼ぐ

 「勤続50年や60年のベテラン社員が正社員として働き続ける」――というケースを紹介すると、「退職金や年金はどうしているのか」といった疑問がわくかもしれない。
 実は西島には退職金制度もない。代わりに、半年ごとに人事評価を見直し、評価が高ければ年齢に関係なく昇給する。20年前まで製造部長だった兵藤さんは、現在でも最も評価が高いという。


●工作機械の心臓部、主軸(スピンドル)の専任技術者・兵藤さん。「花ロボ」の開発者の1人でもある

 悩ましいのは収入が増えると、在職老齢年金(60歳以降も継続して雇用される、厚生年金の被保険者に支給される年金)の支給額が減らされることだ。
 「努力の結果で現在の収入が増えたのに、本人が積み立てた年金を杓子(しゃくし)定規に減額されるのは、おかしいでしょ」と西島さんは不満を述べる。

 会社によっては、60歳以降の給与を減らして、その分を「第二退職金」として準備し、継続雇用満了時に支給するケースもあるが、「生涯現役」を掲げる西島にはそぐわない。あくまでもそれまでと同じように処遇する。
 世間でいう「定年」の年齢から十数年を経ても、培った技術を武器に正社員として働く。その間に(業績や評価に応じて増減はあれども)何千万円を稼ぐ――というのは、これからの時代のモデルケースのように思える。

 同社の60代、70代の社員は、義務教育を終えてすぐ就職した世代だ。当然、入社時は特別な技術もなく、長年の現場作業で腕を磨いてきた。身体で覚えた多様な経験も財産だ。
 相手先の現場に合う専用機の開発では、設計図を描いても判断に悩む場合もある。現場に経験豊富なベテランがいれば、相談もしやすい。本来の意味での“相談役”だ。
 一方で、後輩に頼られる謙虚さも必要だろう。同社でも、かつてはベテラン技術者と30代の課長が対立したことがある。このときは西島さんが仲介に入って、お互いを納得させた。

 「隠居する人もいましたが、江戸時代の職人や農民は死ぬまで働きました。天然資源の乏しい、この国の財産はヒトです。進化を続ける人材を大切にして社業に生かしたい」
 これが同社の掲げる「一流の製品は一流の人格から」にもつながっている。

■Company Profile
西島株式会社
・創業/1924(大正13)年  ・法人化/1998(平成10)年
・代表取締役社長 西島篤師
・本社/愛知県豊橋市石巻西川町大原12
 (TEL) 0532-88-5511(代)
・事業内容/自動車関連専用工作機械、全自動超硬丸鋸切断機、全自動丸鋸刃研削盤、農業用自動工作機などの設計、製造販売
・経営方針/「定年なし、学歴関係なし、技術に限界なし」
・従業員数/140人(2012年9月1日現在)
・企業サイト http://www.nishijima.co.jp/

◆高井尚之(たかい・なおゆき)
ジャーナリスト。1962年生まれ。日本実業出版社、花王・情報作成部を経て2004年から現職。「企業と生活者との交流」「ビジネス現場とヒト」をテーマに、企画、取材・執筆、コンサルティングを行う。著書に『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『花王の「日々工夫する」仕事術』(日本実業出版社)、近著に『「解」は己の中にあり 「ブラザー小池利和」の経営哲学60』(講談社)がある。