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トップリーダーが語る人材戦略 [2012.06.21]

第5回 日本理化学工業株式会社(前編)


「障がい者が1人でも多く働ける会社に」

大山泰弘 おおやま やすひろ
取締役会長

 1932年東京都出身。56年に日本理化学工業株式会社に入社、74年に代表取締役に就任、08年に会長就任、現在に至る。受賞歴には、2003年には厚生労働大臣表彰、04年春の叙勲で瑞宝単光章、09年に渋沢栄一賞などがある。

【日本理化学工業の概要】
 国内シェアトップである粉が飛び散らないダストレスチョークなどの文具・事務用品製造販売を主業務に、プラスチック成形加工なども展開。障がい者雇用割合が70パーセントを超えるなど、長年、障がい者雇用に貢献している。
 一般企業では働けないと言われている重度障がい者であっても、社会の役に立って働くことができることを自ら実証。その実績を踏まえ、重度障がい者に対して、少しでも役に立って働ける場を企業が用意し、国が企業に代わって最低賃金を支給するという、ベルギー視察で学んできた障がい者雇用制度の導入を訴えている。また、「すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ」とする日本国憲法27条にのっとり、“国民みんなが役に立って働ける皆働社会”を、障がい者、中小企業、国、国民にとって「四方一両得」で実現できる――という、知的障がい者から得た気付きを伝えることを、日本理化学工業の使命として展開している。
URL=http://www.rikagaku.co.jp/
本社 神奈川県川崎市高津区久地2-15-10
資本金 2000万円
従業員数 74名
<2012年3月現在>

※本インタビューは、人事専門資料誌「労政時報」の購読者限定サイト『WEB労政時報』にて2011年9月に掲載したものです。
聞き手、文:溝上憲文  写真:(株)トリニティ


 

■きっかけは、周りからの働き掛けから

――日本理化学工業では全従業員74人中55人の知的障がい者が働いています。うち26人が重度の障がい者です。障がい者を雇うようになったきっかけは何でしょう。
 まず最初に言っておきたいのですが、すべての企業が同じようにできるというより、当社はたまたまラッキーな条件が重なったということがあります。
 一つは国の融資です。障がい者雇用の助成制度ができる4年前の1973年に、障がい者を雇った企業に対する融資制度ができました。融資の条件は、全従業員のうち50%が心身障がい者で、なおかつその半分は重度障がい者を雇用するというものです。金利は年4.7%で20年償還です。最初はそういう制度があることを知らなかったのですが、当時の労働省の担当者から融資制度ができたと連絡があり、「制度はできても知的障がい者雇用のモデル工場申請企業がなかなかないので、手を挙げてくれませんか」というものでした。それで、1975年に1億2000万円の融資を受け、障がい者多数雇用のモデル工場を川崎に作りました。
 もう一つは、チョーク業界は大企業が参入しない小さな市場であることに加えて、学校で使う製品なので景気に左右されないという特徴があります。それもあって安定した経営を続けることができ、融資の返済も完了し、現在に至っています。

――それにしても、たくさんの障がい者を雇うのは経営者として勇気がいることです。障がい者との出会いはもっと古く、1960年に2人の知的障がい者を雇用したのが始まりと聞いています。
 当社は1937年の創立ですが、初めて障がい者を雇用したのは1960年です。養護学校の先生が、来年卒業する生徒の就職をお願いしたいと訪問されたことがきっかけでした。聞けば、生徒は精神薄弱児、今の知的障がい者だというのです。最初は断ったのですが、先生は2度、3度と足を運ばれ、3回目に来たときに「どこの会社も取り合ってくれません。何とかお願いできませんか」と懇願されたのです。「もし、来年就職できないと施設に入らざるを得なくなりますが、東京は施設が少ないので地方の施設に行かざるを得ません。(当時は高等部がなかったため)中学校を出たまま、働くことを知らずに一生を終わってしまうことになるのです」と言うのです。
 ついには「就職が無理なら、卒業までに働く経験だけでもさせてもらえませんか」と言われたため、2週間の実習を引き受けることになったのです。来たのは15歳の2人の少女でした。実習中は当社の女性社員に教えられながら、2人とも一生懸命にやっていました。そして2週間の実習が終了した日、社員たちが私のところにやってきて「2人は一生懸命にやってくれましたし、自分の娘のように思えてなりません。卒業後、親元を離れて遠くの施設に行かなくてはならないのはかわいそう。たった2人なんだから、専務さん、私たちも応援しますので、何とか雇ってもらえませんか」とお願いされてしまったのです。
当時、社長だった父は入院していました。専務だった私は、大学を出て経験3年の若造です。こうして社員たちから強く言われ、私も格好いいところを見せなければと、「みんなが面倒を見てくれるのなら…」ということで雇うことにしたのです。ですから最初は、周囲の同情がきっかけで入社させたのです。

■お坊さんの言葉に、企業の使命とは何かを教わる

――それがきっかけとなって養護学校から入社する人が増えていくわけですか。
 先ほどの養護学校の先生がしっかりしているというか、毎年秋になると頻繁に会社へ訪問してくるのです。その学校の生徒が初めて就職した会社ということもあり、卒業生が働く姿を見た後で「すでに彼女たちは他の仕事に移っていますね。そして、彼女たちが最初にやっていた比較的簡単な作業が空いていますね。もう1人何とかなりませんか」と言ってくるのです。そうしているうちに4人、5人と増えていったのです。
 でも、当時の私は障がい者のことをよく知っていたわけではありません。気付かされたのは、業界の方の法事でお会いした禅寺のお坊さんの言葉でした。その日はたまたま会食の時間に遅れ、中央にいらしたお坊さんの横しか席が空いていませんでした。それまではお坊さんと話したことはなかったのですが、会食の時間が長いので、何か話し掛けないとまずいと思い「実は、うちに重度の知的障がい者が何人か働いているのです。本当なら施設で大事に面倒を見てもらったほうが幸せだと思うのですが、毎日、朝早く起きて、満員電車に乗って通ってくるのです。それが私には不思議でして」と言ったのです。
 すると、今までにこやかな顔をされていたお坊さんが急にキリッとした表情になり、「大山さん、あなたは人間というのは大事にされることが幸せだと思っているのですか」と逆に質問されたのです。驚いて、もちろんそれだけで幸せとは思いませんが…と弁解すると「人間の究極の幸せは四つです。一つ目は人に愛されること、二つ目は人に褒められること、三つ目は人の役に立つこと、そして四つ目は人から必要とされることです。愛はともかく、後の三つは仕事で得られることです」と言われたのです。「福祉施設が人間を幸せにするのではなく、企業が、人間みんなが求める究極の幸せを与える場なのです」と言われ、驚くと同時に企業の使命とは何かを教えてもらい、私自身大きな感銘を受けました。
 チョーク屋が大きな会社になれるはずもない。そうであるなら、障がい者が1人でも多く働けるような会社にしていこうと決意したのです。

――それでも大山さんは当時30歳前後とお若いころでした。経営者として会社を大きくしたいという夢や野望もあったのではないのですか。
 もともと私自身、父の後を継いでチョーク屋をやることも考えていませんでしたし、自分は企業で働くタイプじゃないと思っていました。
学生時代に見た『二十四の瞳』の映画で、先生というのは人間の魂、心を美しくする芸術家であるという言葉がありました。それに感動して、教育者はすごいなと感じ、大学時代はいずれ教育の仕事をしたいという思いがありました。ところが家庭の事情で家業のチョーク屋を引き継ぐことになったのです。自分の生き方の転換を迫られたわけですが、家庭の事情もあり、「逆境を甘んじて受けて、それを最大限に生かす人生」を歩もうと思いました。
 そして養護学校の先生と出会って障がい者を雇うようになり、お坊さんから人間の究極の幸せを教わったことで、一人でも多くの障がい者に働く場を提供できる企業として頑張ってみようと決意したのです。その流れから、先ほどの障がい者雇用のモデル工場の建設につながったのです。

■仕事の結果が同じであれば、それでいい

――実際に知的障がい者に働いてもらうにしても、健常者と同じように働くことは難しいと思います。作業工程をどうするのか、生産性を向上させるための工夫をなさっているのですか。
 そうですね。1960年に最初に2人雇ったときは、福祉の環境に通じた、障がい者に関わりのある先生に指導してもらうのがよいと考え、実際にやってみたのです。ところが、普通の人がやっていることを一生懸命に教えても、なかなか成長が見えません。
 そこで、どうしたら作業をこなせるようになるのかを改めて考えました。それには、どういう場合に彼らが自分一人で判断し、行動するのかを知る必要があります。彼らは駅から工場まで歩いて通うのですが、途中にある交通信号を見て道路を渡ってきます。それがヒントでした。色の区別ができるのであれば、色を使って作業の段取りができるようにすればよいと考えたのです。
 それを材料の計量に応用しました。通常は紙に何グラムという分量が書いてあり、指示表を見て材料を確認することで、どのくらいの分量を入れるのかが分かるのですが、文字や数字の理解が遅い人もいます。そこでAという材料を赤い容器に入れておき、その容器から出したものは、赤く塗った重りをはかりに乗せることで計量できるようにしてみました。つまり、色合わせによる作業の手順を作ったところ、結果としてうまくいったのです。
 落ち着きのなかったある男性従業員にその方法で実際にやらせてみたところ、集中してうまく計量していくのです。現場のマネージャーが何回か足を運んで、褒めながら作業をさせていると、とうとうその日の自分の仕事を完了させ、「もう終わっちゃいました。もっとやってもいいですか」という言葉が返ってきました。
 そのときに思ったのは、「そうか、その人の持つ理解力に合わせて作業工程を設計してやれば、彼らも安心して仕事ができるし、まして褒められればうれしいと感じるのだな」と。大事なのは無理に教えるのではなく、彼らの理解力に合わせて作業環境を作り、そして仕事の結果が同じであればそれでよい。それによって立派な労働力になるのだと思いました。それから時間の計測に砂時計を使うなど作業工程の改善を図っていったのです。

■班長制度で、やりがいをもたせる

――既存の作業工程に彼らを合わせていくのではなく、理解力をベースに作業工程を作り直すことで彼らの能力を発揮してもらう。それによって生産性の向上を図るということですね。
 彼らが集中してやってくれたので、モデル工場も軌道に乗せることができたのです。それからもう一つ、彼らを数年間見ていて取り組んだのが「班長制度」です。彼ら先輩は、必要以上に親切に新人である後輩の面倒をみます。それを見ていて、私たち健常者の“常識”で難しいことを教え込むより、いわば彼らの間で通じる“言葉”で教えてくれたほうが新人も安心して仕事ができるし、いい結果が生まれるのではないかと考えたのです。
 工場では14~15人の障がい者を束ねるマネージャーが1人いますが、その下に5~6人の面倒をみる班長を3人置くことにしたのです。例えば、困っているメンバーを見たら、どうしたんだと声を掛けて、分からないところがあれば教えてあげる。普通は障がい者の従業員4~5人ごとに健常者の指導員が1人付くのですが、うちはマネージャーの助手として障がい者の班長がメンバーの面倒をみます。このため、必要以上に健常者を入れていませんし、そのための人件費も掛けなくて済むわけです。

――非常に合理的な運営方法ですが、「班長制度」は障がい者の行動をよく観察していたからこそできた制度ですね。
 実はそのきっかけというのは、定着率がよくなかったことにありました。知的障がい者といっても重度の人もいれば中・軽度の人もいます。軽度の人の中には、例えば「僕は重度でもないのに、そういう人と一緒に働くのは嫌だ」と言う人もいて、中・軽度の人の定着率がよくなかったのです。そこで定着率を上げるための方策として班長制度を作ったという経緯もあります。「君は一つの仕事だけではなく、二つ、三つの仕事を早く覚えたので、それを新しく入ってくる人に教える班長になって彼らの面倒を見てほしい」と。そのことが本人のやりがいにもなり、定着率の向上にもつながりました。

(後編に続く)


溝上憲文(みぞうえ・のりふみ) ジャーナリスト
1958年鹿児島県生まれ。明治大学卒業。経済誌記者などを経て独立。経営、ビジネス、人事、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍中。著書に『隣りの成果主義』(光文社)、『超・学歴社会』(同)、『団塊難民』(廣済堂出版)、『「いらない社員」はこう決まる』(光文社)などがある。


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