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プロが語る 成果を上げる社員の条件【佐藤文男】
日本テレビ放送網 土屋敏男さん編
[2011.06.07]

日本テレビ放送網 土屋敏男さんが語る“デキる社員”の条件 ~意に反して配属された編成部。毎週1本ずつ、2年間で100本以上企画書を出し続けた(1/3)


各分野のプロが語る 成果を上げる社員の条件(25)

土屋敏男さん

(日本テレビ放送網株式会社 編成局エグゼクティブディレクター)

インタビュアー:佐藤文男(佐藤人材・サーチ株式会社 代表取締役)
文:千葉はるか(パンクロ)

各分野で活躍されている10人の方にご登場いただき、キャリア遍歴や仕事観、失敗談や苦労話までくまなくお聞きすることで、“デキるビジネスパーソン”にはどんな思考、行動様式が求められるのかに迫る本シリーズ。第9回のゲスト、土屋敏男さんは、日本テレビ系列「電波少年」シリーズや「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の大ヒットで日本のバラエティ番組史上に名を残す、辣腕プロデューサーです。「電波少年」シリーズで、ダース・ベイダーのテーマ曲とともに登場し、数々の若手芸人に恐れられていた「Tプロデューサー(T部長)」と言うと、頭に浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
しかし、そんな土屋さんにも、知られざる修業時代がありました。1回目の今回は、「電波少年」ヒット前夜の、苦しい下積みの時期について振り返っていただきました。

企画を担当した大学祭。ステージの裏から客席がどっと笑っているのを見た時、身体がしびれた

―テレビ業界を目指し、日本テレビ放送網に入社した経緯を教えてください。

きっかけは、学生時代に大学祭の企画を担当したことです。それまでの大学祭は、外からタレントを呼ぶような企画が多く、地元の人は来るけれど学生はあまり参加しないという状態でした。僕は「大学祭は本来、学生の学生による学生のためのもののはず。学生がみんなで楽しめるものって何だろう」と考えて「クラブ対抗歌合戦」という企画をやったら、これが受けた。大学のクラブって、代々伝わる門外不出の歌があったりして、それが面白かったんですよ。
大学祭当日、ステージの裏から客席の人たちがどっと笑っているのを見た時は身体がしびれて、「人を楽しませる仕事はいいな」と感じました。

土屋敏男さん (日本テレビ放送網株式会社 編成局エグゼクティブディレクター)

それまでは就職について考えたことがなくて、周囲と同じように自分も商社に行こうかなと思っていたのですが、「人を楽しませる仕事がしたい」というところからテレビ番組の制作を志すようになりました。なかでも、日本テレビは第一志望だったんです。
当時は初めて「24時間テレビ」が放送されたころで、1つの番組を24時間もやるという常識の破り方、ダイナミックさに惹かれました。しかし、気付けば入社してもう30年以上たっているというのはすごいことですね(笑)。

意に反して、配属されたのは編成部。毎週1本ずつ、2年間で100本以上、制作部の企画室に企画書を出し続けた

―入社前から、明確にやりたい仕事が決まっていたわけですね。入社後はどのようなお仕事を担当されたのですか?

制作部を希望していたんですが、配属は編成部でした。編成部は企画を見ながら番組の編成を決めていく、テレビ局の肝ともいえる部署です。テレビ番組がどのように作られるのか、営業のことから技術のことまで学べる仕事でしたから、結果的にはいい配属だったと思います。

でも、僕は番組を作りたくてたまらなかったので、この編成部への配属は正直ショックでした。それで、配属された数日後に制作部を訪ねて「どうやったら制作部に入れますか」と聞きに行ったんです。そうしたら「番組の企画書を出せばいい」と言われたので、それからずっと毎週1本ずつ、制作部の企画室に企画書を出し続けました。出した企画は、2年間で100本以上。我ながら、執念深かったと思います。3年目に、とうとう「そんなにやりたいなら」と制作部に異動させてもらうことができました。

制作部に移って最初に担当したのはワイドショーです。僕自身は「タレントのだれが結婚した」という話題には興味がないので、正直に言うと嫌でたまりませんでした。でもこれが電波少年の元になるわけですから解らないものですね。
ワイドショーを2年半やった後はテリー伊藤さん(当時は伊藤輝夫さん)が総合演出を手掛けていた「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」のディレクターになったんですが、これも最初はすごくつらかったですね。僕が作ったVTRを見ても、だれも笑ってくれなかったんです。番組は高視聴率を取っていましたが、僕は伊藤さんに企画を直されて追加ロケまでして、それでもスタジオで笑ってもらえなくて、ディレクターとしてまったく役に立っていませんでした。

でも、「元気が出るテレビ!!」に移って半年たったころ、自分が作ったVTRで初めてお客さんが笑ってくれたんです。そこで大学祭の時と同じ、あの身体がしびれる感覚を味わって、「ずっとバラエティー番組を作っていきたい」と思いました。28歳の時のことです。

作った番組があまりにも当たらず、編成部に戻される。「自分には番組を作る才能がないんだ」と落ち込む日々

―「元気が出るテレビ!!」が、その後、長期にわたってバラエティー番組制作で手腕を発揮されるきっかけになったわけですね。

ただ、その後も失敗が続いたんです。30歳で初めて自分で企画した番組は視聴率が1.8%しか取れず、半年で打ち切りになりました。もう一度チャンスをもらって次に作った番組も、まったくダメ。それで初めて、視聴率を取ることがいかに大変なのかを思い知りました。

土屋敏男さん(左)と佐藤文男さん(佐藤人材・サーチ株式会社 代表取締役 右)

それまでは「元気が出るテレビ!!」という人気番組のスタッフの一員で、視聴率が20%以上ありましたから、視聴率を取るのは難しくないと勘違いしてしまっていたんですね。でも、自分の責任で番組の舵取りをするのと、2番手以降の位置にいるのとでは、難しさがまるで違います。2番手以降は「舵取りをする人がどうしたいのか」を考えて仕事をしていますが、舵取りをする人間は番組すべてを考えなくてはいけないんです。

結局、あまりにも作った番組が当たらなかったので、僕は編成部に戻されてしまいました。その時はさすがに「自分には番組を作る才能がないんだな」と、ずいぶん落ち込みましたよ。「転職したほうがいいんじゃないか」と考えたこともありました。

profile 土屋敏男さん(日本テレビ放送網株式会社編成局エグゼクティブディレクター)
1956年生まれ。1979年に一橋大学社会学部を卒業し、日本テレビ放送網に入社。編成部やワイドショーの現場を経た後にバラエティー番組制作の道に進み、プロデューサー、ディレクターとして「電波少年」シリーズや「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」など数々の番組を手掛ける。「電波少年」シリーズでは「Tプロデューサー」「T部長」として番組に登場。2006年、動画ポータルサイト「第2日本テレビ」を立ち上げ、コンテンツ事業局次長兼「第2日本テレビ」事業本部VOD事業部長に就任。2010年より現職。ATP個人賞、日本文化デザイン賞など受賞多数。著書に『電波少年最終回』(日本テレビ放送網)、共著に『一歩60cmで地球を廻れ~間寛平だけが無謀な夢を実現できる理由~』(ワニブックス)がある。

profile 佐藤文男(佐藤人材・サーチ株式会社 代表取締役)
一橋大学法学部を卒業後、総合商社、外資系証券会社、メーカーといった異業種においてキャリアを積み1997年に人材サーチ(ヘッドハンティング)ビジネスへ。2003年に佐藤人材・サーチを設立。
著書は共著1冊を含め転職に関する本を12冊出版。 主な著書に『40歳からの転職術」(日経BP社)、『ヘッドハンティング・バイブル』『転職後、いい仕事ができる人の条件』(共に経済界刊)。今年3月に『転職のバイブル2012年版』を経済界より出版。
佐藤人材・サーチ ホームページ: http://www.sato-jinzai.com/


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