2012年09月12日掲載

トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - 創業以来、定年なし。70代が担う「技術革新と伝承」──西島株式会社 代表取締役社長 西島篤師さん(上)

 


 

   
撮影=上野英和

西島篤師 にしじま とくし
西島株式会社 代表取締役社長
1951年愛知県生まれ。専修大学経済学部卒業後、豊橋工倶西島鐵工所(当時)に入社。75年にドイツに社費留学し、マンハイム大学経済学部、カールスルーエ工科大学で学び80年に帰国。総務課長を経て、95年に代表。98年に法人化して現社名に変更、社長に就任。円高不況、リーマンショックと2度にわたる工作機械不況を経験。現在は新規取引先を増やして業績を回復させた。「生産は豊橋、販売市場は世界」を掲げて、受注製作に取り組む。

定年制がなく、社歴50年を超えたベテランと若手が一緒に働く。
文系出身だがドイツで苦学して技術を習得し、「多能工」を掲げる。
泊まり勤務明けの社員の朝食も作る西島社長が目指す「技術」とは?

取材構成・文=高井尚之(◆プロフィール

 「お~い、今日は鯨肉があるから、食べてくれよ」
 昼12時過ぎの食堂で、社長の西島篤師(とくし)さんの声が響く。この日のおかずは8品。カツ以外は、おひたしや、ひじきなどヘルシーな品が並ぶ。鯨肉は社長の差し入れだ。
 ちなみに、取材に訪れたこの日は火曜日だったが、毎週水曜日は甘口と辛口の2種類を用意した「カレーの日」であり、年に2回は「すき焼き」も出される。これで一食210円である。


●若者好みのカツ・カレーと、高齢層に配慮した品数豊富な野菜の和え物──世代と健康のバランスが絶妙だ。右は西島社長差し入れの「鯨肉の大和煮」

 工作機械メーカー・西島株式会社の企業風土を象徴するのが、この社員食堂だ。年配社員も若手社員も並んで食事をとる。
 最年長は78歳、70代や60代の社員も多いので塩分控えめの味付けだが、一方で最年少は18歳。20代の若手も多く、ごはんとみそ汁はお代わり自由となっている。


●3世代が一堂に会する昼食風景。12時を過ぎると、社長を含め130人を超える社員が一斉に席を埋める。2階には喫茶・談話室もある

3世代の作業風景が当たり前

 愛知県豊橋市の郊外にある西島の本社工場――。ここでは企業の生産現場で使う機械を受注生産する。生産する機械には汎用(はんよう)機と専用機があり、最近の取引先には韓国や中国、インドネシアといった海外も多い。
 中央を広くとった通路の両側には、それぞれの作業を担う社員が黙々と働く。いつもは整理整頓された中央通路にも作業道具が置かれ、納期が迫った状況がうかがえる。
 作業場の一角では、年配の社員と若手社員が同じ機械に向き合う。

 この日一緒に作業していたのは、71歳の戸澤秀夫さん(勤続55年)と21歳(勤続3年)の川崎拓也さんだ。インターンとして専修大学の学生である立花亮太さん(19歳、経営学部2年生)も現場実習に来ていた。
 年齢差は50歳以上。個人経営企業でもない限り、ここまで世代の違う社員が一緒に働く光景は珍しいが、西島にとっては当たり前だ。
 「年齢に関係なく、技術の高い社員は会社の財産」という意識が徹底されている。

 戸澤さんは、西島の主力製品・超硬丸鋸切断機(ちょうこうまるのこせつだんき)の開発者で、組み立ての専任技術者だ。若い頃は血気盛んで、泊まり込みで1週間作業したこともある。
 「いろんな引き出しを持つ戸澤さんは、さすがに判断が速い。口ではあまり教えてくれないので、見ながら覚えることも多いです」(川崎さん)
 学生の立花さんが「現場らしいニオイの中で、生きた経営を学べるのは貴重な経験です」と感想を述べる中、戸澤さんは「技術を吸収してもらうには、私がやり過ぎてもダメ、やり足らなくてもダメです」とノウハウを語る。


●戸澤さんの作業に見入る若手2人(奥・立花さん、手前・川崎さん)。「教え」「教わる」立場こそあれ、顧客に納める「商品」を手掛ける以上、現場では全員が“プロ”として扱われる

 戸澤さんとともに、同社を代表するベテラン技術者は何人もいる。その代表格が兵藤勝哉さん(78歳、勤続61年)と平尾隆義さん(78歳、勤続62年)だ。
 兵藤さんは、工作機械の心臓部である主軸(スピンドル)の専任技術者だ。技術の習得にも熱心で、世間でいう退職年齢となってからC言語(コンピュータに対する一連の動作の指示を記述[プログラミング]するための人工言語の一つ)を駆使するようになった。
 最も勤続年数が長い平尾さんは、組み立ての専任技術者で、金属の表面を平らにする“きさげ”と呼ぶ作業のスペシャリストでもある。
 70歳を超えても全員が正社員で、嘱託といった非正規型の処遇ではない。

技術を失う「定年制」への疑問

 技術力のある高年齢者が定年なく働ける環境を制度化したのが社長の西島さんだ。そもそも同社に定年制はなかったが、1995年に43歳で代表に就任した後、正式に「定年制なし」を表明した。
 同社では、健康で働く意欲があれば現役でいられる。条件は「月曜日から金曜日まで通常勤務ができること」。以前は82歳まで勤めた社員もいた。本人から「もう身体がキツイ」と申し出があり、退職したが、半年後に認知症で亡くなったという。

 西島さんが定年についてあらためて考えたキッカケは、自社の業績不振だ。社長就任当時、主力取引先の自動車業界が不況で、工作機械の受注も激減していた。
 活路を拓くために新規事業の獲得に動く。そんなとき、地元・渥美半島の特産品である「電照菊」の栽培農家が、高齢化で困っている話を耳にする。菊を根元から切り、下葉を切り取って箱に入れる出荷作業は高齢者にとって負担が大きかったのだ。

 そこで作業を軽減する機械開発に乗り出したが、当初は難航した。鉄や鋼材を切るノウハウはあっても、生花である菊のデリケートさに悩まされた。
 この窮地を救ったのが、兵藤さんたちベテラン技術者だった。寝る間も惜しんで作業に没頭し、試行錯誤の末に最適な切断につなげ、全自動選花結束機を開発する。のちに「花ロボ」と名づけた商品の完成だった。

 当時、兵藤さんや平尾さんは60代前半。一連の取り組みを見て、西島さんに疑問がわく。
 「定年がないままやってきたが、一体、定年制とは何だろうと。調べてみると、19世紀のプロイセンでオットー・ファン・ビスマルクが、政敵追い落としの口実として始めた制度だという。
 そんな大昔の制度に縛られて、本人が長年にわたり培った技術が、定年でゼロになるのはバカバカしい」
 以来、西島さんはこうした考えを社内外に公言するようになり、メディアの注目を集めた。

 同社では逆に、課長や部長には20代や30代の若手を登用する。「若くして責任のある仕事を任せるのは、上の世代の大変さを学び、自分自身の成長につなげるため」と西島さんは説明する。
 部課長を退く年齢はさまざまだが、役職は外れても技術は残る。兵藤さんは59歳まで技術部長だった。管理の役目を終えてからは、それまで培った技術の伝承も役割の一つになっている。
 制度が話題を呼び、メディアからの取材依頼が絶えないが、西島さんは「高齢者の活用」といったステレオタイプの見方は嫌う。「高度な技術に挑む姿勢に年は関係ない」との信念からだ。

自社一貫生産で商品を開発

 西島さんは自信満々に「『自社一貫生産』と『多能工』の二つが当社の特長」と語る。
 「自社一貫」とは文字どおり、営業が注文を受けてから、「設計→材料調達→部品加工→組み立て→納品」までの全工程を自社で行うもの。技術ノウハウが流出せずに社内に蓄積される。
 それによって技術の共有だけでなく(他社に委ねる部分がないため)新商品開発のスピードが増す。震災や台風で部品調達ができず、最終商品が作れないようなリスクもない。

 3年前には単体機で「プラスワン」と呼ぶ、残材を減らして切断できる新型丸鋸切断機を開発した(機能を搭載した商品名はCNC全自動超硬丸鋸切断機「NHC-NDシリーズ」)。
 通常の切断機では60~100ミリメートルほど出てしまう残材を、最短で20ミリメートル程度まで抑えることで、無駄を減らしてコスト対応力を増した機械だ。これを開発したのは戸澤さん。

 一方の「多能工」とは、複数の異なる技術を身に付けさせるものだ。時にはあえて大胆な人事異動も行う。機械設計を担当していた人を溶接課長にしたり、組み立てを担当していた人を電気設計課長に登用したりしたこともある。現在の総務課長は西島さんの長男・豊さんだが、もともと機械設計の担当者だった。
 技術者の場合、新入社員から10年ぐらいは電気設計や機械設計、加工、組み立てといった業務を何でも担当させ、技術や技能の習得に努めてもらう。その後は徐々に多能工から専任工になっていくという。戸澤さんたちベテラン3人も、それぞれ専任技術者として汗を流す。

 中堅社員では、技術を持つ人間が営業を担当することも多い。相手先と細かい技術の話になった場合、知識や経験がないと対応できないからだ。時には総務課長の豊さんも取引先に出向く。
 「管理部門は昔から、社内では一番下っ端だ」と、代表就任前に総務課長だった西島さんは、いたずらっぽく笑う。
 実は、「多能工」という考えに至ったのは、西島さん自身の苦い経験からだ。

ドイツで技能習得した、元文系

 本社ビルの入り口を入った場所に、1台の機械が置いてある。「昭和7年製発動機」の復刻版だ。大正13年(1924年)に創業した同社は、この漁船用発動機の開発で会社を飛躍させる。
 当時の資料が少ない中、西島さんを中心に機械を再製造したものだ。もちろんエンジンも起動する。この機械は、文系だった西島さんの技術習得の成果でもある。


●同社飛躍の原動力となった発動機の復刻版。当時、重量の軽減や粗悪な燃料にも対応した画期的な製品で、西島さんがこだわる「自社一貫生産」と「多能工」の原点になっている

 入社した翌年、後に義父となった先代社長の正雄さん(故人)からドイツ行きを打診され、23歳で渡独。「海外生活に興味があり、軽い気持ちで」(西島さん)の留学だった。4カ月の予定で、ブラウボイレンにあるゲーテ学院(外国人向けのドイツ語学校)に入学した。
 その4カ月が終わる頃、正雄さんから絵はがきが届き「もう少しいろ」、また4カ月たつ頃に次の絵はがきで「もう少しいろ」と指示され、結局ドイツ留学は6年に及ぶ。
 この間に初級クラス、中級クラス、高等クラスを経て、マンハイム大学経済学部に入学したが、ここで西島さんにとって忘れられない出来事が起こる。

 ドイツに中田 孝さん(故人、元東京工業大学教授で歯車工学や自動制御の大家)を団長とする視察団がやってきた。一行に正雄さんもいた関係で、西島さんが通訳を務める。
 しかし結果は、西島さんが次のように振り返る、苦い経験となった。
 「業界用語にも無知な、使えない通訳でした。例えば『どの工程でお湯を処理しているのか』という質問を、ドイツ語に翻訳しても話が通じない。他の人に指摘されて初めて、お湯とは業界用語で『鉄が溶けた状態』を指すことを知る始末でした」

 最終日に団長の中田さんは、ミュンヘンの書店で西島さんに「通訳のお礼だ」と膨大な本の束を買い与えてこう言った。「これを読めば、機械工学が分かる」。
 それまでは文系出身として理系の勉強には及び腰だった西島さん。「社長にも恥をかかせて、自分が情けなく感じました」
 正雄さんに頼み込んで、カールスルーエ工科大学に進学させてもらう。ドイツ語で行われる工作機械学、機械設計学、技術構造学の授業を受け、ダイムラーベンツ社での工業実習では、ミニチュアの製品を製造して実習証明も取得した。ドイツ人の同級生が次々に脱落する中、必死に食らいついていったという。

 このときに身体で覚えた、本人の言葉を借りれば「むちゃくちゃ難しかった」ドイツ語と機械工学技術から、西島さんは「人間には違う特性を会得する能力が備わっている」ことに気づく。この経験が社内業務の「多能化」という発想につながっていったのだ。

「NISHIJIMAX」に込めた思い

 同社製の機械には、「NISHIJIMAX」というロゴが入っている。社名の“NISHIJIMA”と英語で「最大限」を意味する“MAXIMUM”を合わせた造語だ。スペル部分の「j」はあえて小文字のようにデザイン化した。「j」の「●」は地球を示し「人を中心に地球規模で貢献する」意味を込めたという。


●“西島ブランド”のロゴ。「最大限の性能を目指す西島のものづくりの思想」と「最大限の性能を誇るハイクオリティな製品」をネーミングコンセプトとしている

 同社の生産品には汎用機と専用機があるが、相手先現場の使い勝手に合わせる専用機では、納入先の要望にきめ細かく対応する。「『NISHIJIMAX』は、当社のモノづくり姿勢である、信頼と誠実を表しています」(西島さん)

 昔から個人的にも、人とのつながりを大切にする。例えばドイツの取引先とは30年近く前から、社長と個人的な信頼関係を持つ。西島さんは「1枚の契約書も交わさないまま、関係が続いています」と笑う。
 西島さんの毎日の出勤は、早いときは朝3時半、遅くても朝5時だ。泊まり勤務明けの社員の朝食を自ら作るのも日課。人気メニューは、コンソメ味の煮麺(にゅうめん)だという。「朝食を食べる社員に話し掛ければ、深夜から朝まで、どんな状態だったかが分かります」

 冒頭で紹介した食堂の特別メニュー「鯨肉の大和煮」は、宮城県石巻市にある、鯨を素材とした商品で定評のある木の屋石巻水産の特産品だ。東日本大震災で被災し、工場と倉庫を津波で流失した木の屋石巻水産は、泥の中から出荷を控えていた缶詰を掘り出し、東京の取引先が泥水を洗い流して「希望の缶詰」として販売。全25万個が完売し、メディアで何度も報じられて話題を呼んだ一品だ。
 現在は協力先工場で生産する缶詰を、西島さんが石巻で買い求めてきた。今では木の屋石巻水産社長の木村長努さんとも親しい。

 「母校の専修大学の理事をしている関係で、石巻専修大学とも交流があり、被災後すぐに現地入りしました。その縁で石巻や気仙沼、女川に行くのです」
 さらりと語る西島さんだが、社員は「社長は多忙な仕事の合間に、何度も義援金を直接手渡しに行きます。最近では『社長は石巻にいるほうが多い』と冗談を言われるほどです」と説明する。
 人の縁を大切にする社長は、技術の縁も大切に、さらなる商品開発を目指す。

■Company Profile
西島株式会社
・創業/1924(大正13)年  ・法人化/1998(平成10)年
・代表取締役社長 西島篤師
・本社/愛知県豊橋市石巻西川町大原12
 (TEL) 0532-88-5511(代)
・事業内容/自動車関連専用工作機械、全自動超硬丸鋸切断機、全自動丸鋸刃研削盤、農業用自動工作機などの設計、製造販売
・経営方針/「定年なし、学歴関係なし、技術に限界なし」
・従業員数/140人(2012年9月1日現在)
・企業サイト http://www.nishijima.co.jp/

◆高井尚之(たかい・なおゆき)
ジャーナリスト。1962年生まれ。日本実業出版社、花王・情報作成部を経て2004年から現職。「企業と生活者との交流」「ビジネス現場とヒト」をテーマに、企画、取材・執筆、コンサルティングを行う。著書に『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『花王の「日々工夫する」仕事術』(日本実業出版社)、近著に『「解」は己の中にあり 「ブラザー小池利和」の経営哲学60』(講談社)がある。