2012年04月19日掲載

HRエグゼクティブの羅針盤――企業の未来と人事の哲学 - 第1回 日本人の消えた日本企業~グローバル化~

 

舞田竜宣  まいた たつのぶ HRビジネスパートナー株式会社 代表取締役/
多摩大学大学院客員教授  
【編集部より】未来に挑む『人事の哲学』とは――皆さんとともに考える新連載です

厳しい環境の中で岐路に立つ日本企業。経営の舵取りに、成長像を見通す明確なビジョンが求められるのと同様に、人事マネジメントの舵取りを担うHRエグゼクティブには、大局的な視点からのビジョンメイキングや判断が求められています。

本連載が目指すのは、人事部門で現在、またはこれからそうした立場を担う方々とともに、いまそこにある数々の課題を一段高い目線から考えること――ここで提示する「問い」を軸に、多くの意見を交えて議論を展開することです。どうぞ、ここからの問い掛けに、皆さんのご意見をメールでお寄せください(本編末尾にご案内を掲載しています)。次回以降は、お寄せいただいたご意見を本編に交えつつ、課題へ挑む航路を探っていきたいと考えます。

哲学なきエグゼクティブは道を誤り、道に迷う
HRエグゼクティブは哲学を語れ
 私が数百人の人事の方々とお会いしてきて感じるのは、「HRマネジャーが持つべきものと、HRエグゼクティブが持つべきものは違う」ということだ。
 マネジャーには知識が必要だが、エグゼクティブには哲学が必要だ。哲学とは、「これからの世の中がどう変わるか」ということへの大局的な見識、すなわち世界観と、「そこでわれわれはどう進むべきか」という方向性、すなわち方針である。世界観なきエグゼクティブは道を誤り、方針なきエグゼクティブは道に迷う。
 そこで、この連載タイトルは、HRエグゼクティブの「羅針盤」とさせていただいた。何も見えない大海の上で、世界地図を広げ、進むべき道を考えるときに役立つものにしたい――との思いからである。

哲学に正解はない
 ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の授業を見ても分かるように、哲学には唯一の正解というものがない。それは、人が思考し、判断する前提となる視座が、それぞれに異なるからだ。
 例えば、日本では車が来ない道なら、横断歩道を赤信号でも渡ってしまう人がいる。その人たちに言わせれば、「信号というのは、歩行者の安全を守るためにあるのだから、車がいない道ならそもそも安全なのだから、渡ってもよいだろう」といったとことだ。
 しかし、ドイツ人にこの話をすると、みんな“あり得ない”という顔をする。彼らからすれば、「信号の指示は法規そのものなのだから、ルールは守らなければいけない」ということになる。
 もちろん、法律は守らなければならない。しかしその一方で、法の目的や精神(この場合は「安全」)にかなうのであれば、柔軟性は認められてもよいのではないか──という考え方は、一種の合理主義だといえなくもない。

正しいのはどちらか
 また、アジアには、“相手が喜ぶなら嘘(うそ)をついてもよい”と考える人たちもいる。罪悪感なしに、平気で嘘をつく人たちがいる。彼らは別に、だますつもりで嘘をついているわけではない。「相手が安心しそうなことを、真偽に関係なく言ってあげている」のである。
 嘘はいけないというのは、根源的にはキリスト教や儒教の考え方なので、西洋人やわれわれ日本人は、嘘をついてはいけないのが「当たり前」だと考える。だが、そんなわれわれも、例えば不治の病に冒された人には、「大丈夫だ」と嘘をつくことがある。それは、いけないことなのか。
 人として最も大切なのは、正直に生きることよりも、人を幸せにすることではないかと言われたとき、私たちは、どう答えるだろう。

哲学を身に付ける方法
 日本人は、哲学論争が苦手だ。それは、ほとんどの人が単一文化の中で代々過ごしてこられたという、世界的にも珍しい恵まれた民族だったからである。「何が正しく、何はいけないことか」を論争しなくてもよかったからである。
 しかし、これからの世界のキーワードは「多様性」である。歴史的背景も、伝統や慣習も、宗教、世代、性差も、さまざまな人々がクロスオーバーしながら生きてゆく。そこでは、単純に“イエス”とも“ノー”とも言い難い問題が出てくる。
・本人たちが望むなら、同性愛者の結婚を法的に認めるべきか
・人間以外のものなら、高等ほ乳類でも何でも食べてよいのか
・合成皮革が作れるのに、子牛の皮でバッグを作ってよいのか
 どんどん増える難題に、私たちは、新たな時代の“共通善”となる哲学を見つけなければならない。
 そのためには、議論をすることだ。一方的に自分の主張だけをして、他者の話には耳栓をするというのでもいけない。先生や上司の話を聞くだけで、自分の脳は思考停止させるというのでもいけない。自分の主張と他人の主張をぶつけ合わせ、そこから発せられた火花が、暗闇を照らす光となる。哲学は、そうして見つけるものである。

人事の哲学「道場」
 そこで、私はこの連載を、読者を巻き込んだ議論の場にできたら――と願っている。こちらが投げ掛ける「問」に、ご自分なりの答えを寄せていただき、それを誌上で紹介しながら、お互いの哲学を深めていく。ウェブならではの面白さを期待している。
 今回は、「グローバル化」をテーマに、以下の3点を読者各位に問いたい。
 (問1) 日本本社で外国人を大量採用し、日本の若者の職が失われてもよいか
 (問2) 若手社員の海外経験は、辞めやすい人間をつくるのではないか
 (問3) 経営者は、日本人より外国人のほうが適任か

(問1)日本本社で外国人を大量採用し、日本の若者の職が失われてもよいか
外国人採用ブーム
 ここ2~3年というもの、日本本社で外国人を大量採用することが、まるでブームのようになっている。
・将来、海外拠点の幹部とするために、現地出身者を若いうちから日本で雇い、育てたい
・“ゆとり世代”の日本人の若者より外国人のほうが、ハングリーで頼りになる
――など、理由はあるだろう。だが、それによって日本人の若者の職が減ることを、私たちはどう考えればよいだろうか。
私企業 vs. 企業市民
 一つの考え方は、「そもそも何国人であるかなど、関係ない」というものだ。今日では、この考え方が一般的であるように思われる。確かに、能力さえあれば、国籍も年齢も性別も、問題にはならない。だから、会社の中だけで考えれば、その考え方には何の疑義も差し挟む隙はないだろう。
 だが、視点をもっと高く取り、国家レベルで考えるとどうなるのか。今、日本では、大学を卒業しても就職できない若者が毎年3万人以上も出ている。彼らに少しでも雇用機会を与えることは、「企業市民としての日本企業の社会的責任である」とは言えないだろうか。

日本企業が日本市場を縮ませる!?
 「国内市場が伸びないから、海外進出するのだ」という常識も、一度は疑ってみるべきだ。国内市場の縮小は、果たして誰が起こしているのか。
 市場というのは、「消費者数×1人当たり消費」で決まる。だから、人口が減れば市場は縮むが、一方で、1人当たりの消費が減っても、市場は縮んでしまう。
 企業が日本人を雇わなければ、日本には二つのことが起きる。一つは「日本人の失業の増加」であり、もう一つは「賃金の低下」である。どちらも消費にとってはマイナスだ。
 つまり、日本企業は「国内市場が魅力的でないから、海外シフトするのだ」というが、日本市場の魅力を失わせている一因は、もしかしたら日本企業自体でもあるのではないか――という疑問も成り立つのである。

「世界基準」は何か
 イギリス、スイス、中国などは今や、国内で雇用される外国人の数を制限し、それにより自国民の雇用を守り、所得水準を維持しようとしている。彼らがそうするのは、経済活動の目的を「国民全体の幸福」に置いているからだ。
 米国でも、この種の議論は過去に何度も出ているが、移民が築いたこの国では、「個人の自由」と「機会平等」という理念のほうが、「国民全体の幸福」よりも強い。彼らにとって経済活動は、あくまで自由であるべきなのだ。そして、「機会は平等に与えられるから、幸福は自らの努力と才能で勝ち取ればよいのだ」と主張する。
 果たして、どちらが「正しい」のだろうか。
 「日本企業が、日本人のためにならなくて、何の存在意義があるのか」と問われたとき、あなたなら、どう答えるか。

(問2)若手社員の海外経験は、辞めやすい人間をつくるのではないか
海外派遣の落とし穴
 外国人採用と並び、日本人の若手社員を海外で“武者修行”させることも、昨今のブームである。
 今までは、海外赴任といっても、海外にいる日本人集団に加わるにすぎなかったところがあるが、今の若者の海外体験は、他に日本人がいないところに単身で飛び込んでいく、というものも多い。
 それは、本人を大きく成長させるし、会社の未来にも貢献すると思われる。だが、そこに落とし穴はないのだろうか。
世界の常識 vs. 日本の常識
 一つ考えられることは、本社への帰属意識もまだ中途半端な若者を、海外で過ごさせると、赴任後に日本に戻っておとなしく過ごすことができないのではないか――という懸念である。ある者は遠からず会社を辞め、またある者は日本に戻ってすらこないかもしれない。
 終身雇用と年功序列という幻想を見られるのは、今や日本と韓国ぐらいであって、海外に出てしまえば、「キャリアアップ=転職」であり、「実力=職位」なのだ。

若者の焦り
 海外赴任しているとはいっても、実際には“日本人村”で生活している日本人駐在員は、どこの国へ行っても日本式の価値観が保たれる。しかし、“周りはすべて外国人”という状況の中で暮らすと、周りはどんどんキャリアアップ(転職)して新たなことに挑戦しているのに、自分1人だけ何も変わらない――という状況に、若者ほど焦りを覚えるのではないだろうか。
 海外の大学院(ビジネススクール)に企業派遣された若手社員が、卒業して日本に帰ると、可能な限りすぐに辞めてしまう傾向があるのは、そうした“焦り”の表れだ。海外で知り合いになった外国人は、ほぼ確実に数年以内に転職、または起業し、キャリアの階段を鮮やかに駆け登る。海外で築いた人脈は貴重な財産だが、その財産が「君は、どうしてチャレンジしないのだ?」と問い掛けるのだ。
 まったく同じことが、若手の海外派遣にも起きる可能性がある。

辞めていく若者
 日本式のキャリア形成は、ゆっくりとした時間の中で行われる。それは決して悪いこととはいえないだろう。しかし、何よりスピードが重要視される現代において、「ゆっくり」ということは「悪い」ことと同じ――という価値観もある。
 その価値観が最も大きな摩擦を引き起こすのは、若者が日本に戻ったときである。海外では伸び伸びと働いていた自分が、本社に戻った途端に、重層構造のピラミッドの最下層に組み込まれる。頭の上に先輩や上司がわんさとあぐらをかく中で、海外で培った自我や自負心が、日々の忍従と内的衝突を起こす。海外で味わった“空を飛び、地を駆けるような爽快感”が、本社では“水中を歩かされるような息苦しさと窮屈さ”に変わる。
 多大な投資をした揚げ句(周知のとおり、海外赴任には住居や生活費を含めて膨大な費用が掛かる)、未来を託す期待を込めた若者が辞めたら、どうするのか。
 「そんな若者は、辞めてもらって結構」と、あなたなら言うだろうか。

(問3)経営者は、日本人より外国人のほうが適任か
「社長の椅子」は外国人用?
 「日本企業のトップは日本人」という常識は、もはや過去のものとなった。日産自動車、オリンパス、日本板硝子など、外国人が日本企業の「顔」として現れる時代である。
 日産自動車の場合は、会社の43.4%がフランスのルノー社に買われ、そこからトップが送り込まれるという「黒船」的な人事であったが、その後の展開を見ると、これは結果的にはよかったのだと思われる。
 オリンパスのウッドフォード元社長は、長年にわたる同社の損失「飛ばし」を告発したが、彼がいなければ、この問題は闇に葬り去られる可能性もあった。そういう意味で、彼は歴代トップにできなかった会社の大掃除をしたのだともいえる。
 日本板硝子は、ピルキントンという英国企業を買収したが、そこの社長であったチェンバース氏を自社の社長にした。その後、同氏は家庭の事情で辞任し、帰国するが、一時的に前社長の藤本氏が社長に復帰した後、次の社長として選ばれたのは、外部から招かれた米国人のネイラー氏(デュポン社の元上席副社長)だった。
 日産自動車もオリンパスも日本板硝子も、海外売上比率が6~8割に達するグローバル企業だが、グローバル企業の経営は、日本人より外国人のほうが向いているのだろうか。
外国人トップの強み
 日本人より外国人のほうがトップに向いていると考えられる理由は、いくつもある。
 まず、外国人のほうが、コミュニケーション能力に長けた、特にメッセージの発信のうまい人が多い。これは、英語の問題ばかりではない。
 日本人は、子供のころから学校で、「先生の話を黙って静かに聞きなさい」と教えられて育つ。だが、他の多くの国では、「自分の考えをきちんと言いなさい」と教わって育つ。日本では、「物言わぬよい子が優等生」とされるが、世界では「しっかりとした主張のできる子」が優等生とされるのである。
 この差は、国際会議を見ると一目瞭然となる。日本人は、国際舞台で話ができないのである。電話会議になると、もっと悲惨だ。電話会議では、発言しない人間は存在していないのと同じになるから、日本人は存在感ゼロなのである。
 存在感のない人間がトップになれるわけがない。

決断できない日本人
 また、外国人のほうが決断力のある人が多い。それは、判断基準を持っているからだ。
 先ほど「外国人のほうが、自分の考えを述べることに長けている」と書いたが、意見を述べるには、「何を言うか」を決めなければならない。つまり、「自己主張を習慣化することは、意思決定を習慣化すること」でもあるのだ。日本人には、相対的にこうした習慣、能力が不足している。
 それに、米国も、欧州も、アジアも、多民族・多文化の世界である。そこで人が生きるためには、何が「正しい」ことなのかを考え抜き、自分の軸を持たなければならない。だが、日本人の多くは、そうしたシビアな状況を経験してきていない。だから、自分の軸がなく、「何が正しいか」より「人にどう思われるか」を気にしてふらふらし、物事を決断できない。

「断じて行う」外国人
 日本人が決断できない理由の一つには、もろもろの「しがらみ」にとらわれることが多々あるからだ――という指摘もある。日産自動車のゴーン氏は、企業系列を大胆に整理することで、同社を立て直したが、これは日本人にはできなかったことだ。また、オリンパスのウッドフォード氏が損失隠しを糾弾したことも、やはり日本人にはできなかった。
 会社のために、何が「正しい」のかを考え、障害があっても断固としてそれを実行する。これは日本人には概して苦手なことのようにも思われる。
 こう考えると、日本人は、世界の中でリーダーになるには不向きな国民のようにも思えてくる。もちろん、最後は個人の資質の問題であるから、「日本人だからダメ」「外国人だからよい」という単純な話ではないにせよ、確率や傾向で考えれば、そういうことになる。
 とはいえ、果たして本当にそうなのだろうか?

日本企業から日本人が消える?
 日本人の採用が減り、若い日本人社員は辞め、トップには外国人が就く――としたら、日本企業の未来は、どうなるのだろう。
 日本企業とは、最後には単に「記録上、日本で創業された企業」になってしまうのだろうか。
 皆さんのご意見を乞う。
   あなたのご意見をお寄せください
    抽選で50名様に図書カードをプレゼントいたします。

 (問1) 日本本社で外国人を大量採用し、日本の若者の職が失われてもよいか
 (問2) 若手社員の海外経験は、辞めやすい人間をつくるのではないか
 (問3) 経営者は、日本人より外国人のほうが適任か

■今回の内容(上記の問1~3のすべてまたはいずれかでも可)について、読者の皆様からのご意見を募集しております。「そう思う」「そう思わない」をお示しのうえ、ご自身としてのお考え・ご意見をメールにてお寄せください

■ご意見をお寄せいただいた方より、抽選で50名様に図書カード500円分をプレゼントさせていただきます

■メールは下記までお送りください(アドレスをクリックするとメールソフトが起動します)
editor@rosei.or.jp 労務行政研究所 「WEB労政時報」編集部
※5月18日(金)を締め切りとさせていただきます

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【著者紹介】
舞田竜宣 まいた たつのぶ
HRビジネスパートナー株式会社 代表取締役/多摩大学大学院客員教授
東京大学経済学部卒業。組織行動変革の専門コンサルタント会社を経て、マーサーおよびヒューイット・アソシエイツ(現・エーオンヒューイットジャパン)でグローバルな人事・組織コンサルティングを行う。ヒューイット・アソシエイツ日本法人社長などを経て現職。著書に『行動分析学で社員のやる気を引き出す技術』(日本経済新聞出版社)『社員が惚れる会社のつくり方』(日本実業出版社)、『行動分析学マネジメント』(日本経済新聞出版社)、『10年後の人事』(日本経団連出版)、『18歳から読む就「勝」本』(C&R研究所、共著)など、監修書籍として『人事労務用語辞典[第7版]』(日本経団連出版)がある。